鉾を立てたような形
龍門岳の山頂を立てたような形に見えたといいます。それで、本来は「髙桙山」と呼ばれていたようです。
およそ1350年前の飛鳥時代、裾部(吉野町山口)に「龍門寺」という古代寺院が造営されました。「髙桙山龍門寺」と称したようです。
この龍門寺が広く知られるようになり、付近一帯は龍門と呼称され、山ももっぱら龍門山、龍門獄などと呼ばれるようになったようです。
そんなことで、「髙桙」の名は山頂にあった「髙桙神社」の名前にのみ伝えられたようです。
なお、「ホコ」という事は元々は木偏だったようです。
飛鳥時代に龍門寺
龍門寺三重の塔跡
龍門寺は、日本に於ける法相宗の開祖とされる義淵(?~728年)が開いたと伝える大和三竜寺の1つ(あと2つは明日香村の竜蓋寺〈岡寺〉と天理市の桃尾滝近くにあった竜福寺)。
龍門寺の創建年代は必ずしもはっきりしませんが、龍門滝のすぐ上にある三重塔跡から奈良時代初め頃(8世紀)の古瓦が出土しています。
また、明日香村の飛鳥池遺跡(県立万葉文化館敷地内)から平成9年に出土した木簡に「龍門」があって「龍門寺」のことと解釈でき、飛鳥時代の天武朝頃(7世紀後半)に既に存在していたとの見方が強まりました。
久米仙人のいた神仙境
龍門山には仙人が住んでいたと伝えます。龍門滝の近くには、久米仙人がいたという「仙人窟」があります。
久米仙人は空を飛べたらしいですが、「今昔物語集」(平安時代末の成立)には「吉野河のほとりで、衣を洗う若い女のまっ白な脛を見て転落、その女を妻とした」という説話が残ります。
橿原市久米町の久米寺は久米仙人が建立したとも伝えますが、何とも愛嬌のある仙人です。
古代においては、「神仙境・吉野」の観念は広くしみ渡っていたらしいです。道教の根本思想である神仙思想は、仏教の山林修行、山岳修行などと結びついてやがて修験道の成立へ向ったようです。
嶽神社
龍門岳山頂に鎮座します。龍門大宮の元宮とされます。
岳山頂からの眺望は吉野郡、宇陀郡をはじめ大和十三郡を眼下に見下ろせ、遠くは淡路島、四国まで見渡せます。山頂の約1.1ヘクタールは龍門大宮の所有林(ヒノキ林)となっています。
4月17日に祭典が執り行われ、多くの人が「岳登り」をします。
男の子が生まれると神酒一升をお供えし、生まれた子の幸福を祈る習慣も続いてきました。
龍門城
南北朝期から戦国時代にかけて、龍門岳の山頂に山城がありました。
麓の山口から比髙600メートルを超える天嶮の地にあり、専門家らは南北朝期に南朝方拠点として築かれた古い山城とみています。
山頂には数基の郭、空堀、土塁などの跡が今も残っています。
伝承では、戦国時代の永享12年(1440)の一色刑部直髙(直信とも伝える)を城主とする龍門城が落城したと伝えます。「龍門城合戦」と呼ばれます。
合戦の相手方は室町幕府の将軍足利義政の命を請けた細川、赤松らの3万騎の軍勢でしたが、武田信賢の精鋭部隊3千に攻め込まれ遂に落城したと伝えます。
「龍門城合戦」によると、城主の一色直髙には、美人で艶やかな王琴という娘があり、この姫さまへの幕府家臣の横恋慕事件が合戦の1つの要因になったとも伝えますが、南朝遺臣たちの幕府・北朝方への根強い抵抗が底流にあったようです。
情報について
このページは、令和3年(2021)年9月、龍門大宮宮司髙鉾美智子様による発行、靏井忠義様による編集・文責にて出版された冊子「龍門大宮」よりウェブページとして再編集・再構成し、同誌に収められた貴重な記録と敬意に満ちた解説をもとに、龍門の歴史・文化を紹介しております。編纂者・関係各位のご尽力に深く感謝申し上げます。

