生涯

少年時代

池田克己は、1912年5月17日、1男2女の長男として、奈良県吉野郡龍門村字平尾に生まれました。
池田家は後醍醐天皇のとき、吉野に8旗8庄司、その下に置いた従旗頭庄司16家の中のひとつに数えられる名家でした。
克己の父家治は高取町の出身で、池田家の養子でした。結婚してしばらくは高取町の小学校の教員をしていましたが、克己が小学校に入学する頃から割烹旅館「扇屋」の経営を始めました。

大正7年龍門小学校に通い始めた克己は、3年生のとき、担任教師として、生涯の師となる植村諦に出会います。

のちに詩人となる植村ですが、克己と出会ったときは、仏教専門学校(現・仏教大学)を卒業したばかりの新任教師で19歳でした。

代用教員で、浄土宗の僧侶でもあった植村は、大淀町の名家の出身でありながら、アナキストでした。

ルソーの「エミール」を教育方針とした植村は、個性主義的、自由主義的教育を旨とし、克己を連れて大峯山脈・竜門山脈の山野を歩いたり、写生をしたり、そして、克己にねだられては、アンデルセンや小川未明・芥川龍之介の童話を読んで聞かせていました。

小学生時代の克己は成績優等で、級長をつとめていましたが、小学校を卒業する前に父家治が亡くなり、家業を継ぐために吉野工業高等学校建築科に入学しました。

製図や設計よりも、デッサンや油絵を描くことが好きだった克己は、絵を描いてはその作品を持って植村諦を訪ねていました。

東京時代

昭和2年15歳で吉野工業高等学校を卒業した4年後の昭和6年、東京の麹町三番町にあった親戚の「長谷川写真館」を頼って上京します。

親戚の経営する「長谷川写真館」に住み込んだ克己は、写真技術を学びはじめました。

吉野から遠く離れた東京で、克己は、植村諦と再会します。

植村は、克己が小学校を卒業したあと、水平社運動に関わり、教壇から追われていました。その後朝鮮に渡って京城の雑誌記者となり、朝鮮独立運動に参加していた植村は、克己が上京する前年に上京していました。

ここで克己は、植村に、絵や写真以外に、初めて自作の詩を見せました。植村は、自分の影響を受けすぎている克己の詩を読んで、忌憚のない意見を述べました。それを聞いた克己は、いつもカンカンになって怒っていました。

東京でアナキズム活動に身を投じていた植村は、克己を連れて牛込クラブの解放劇場や解放文化連盟の集会に出かけました。そこで克己は、秋山清、小野十三郎、岡本潤といったアナキスト詩人たちと出会いました。

克己の写真技術の上達は早く、上京して翌年の昭和3年には牛込に家を借り、独立して「池田写真館」を開業します。「池田写真館」には、青年文学家・芸術家たちが多く出入りし、なかでも当時パリから帰国したばかりの詩人、深尾須磨子に写真技術と人柄を気に入られ、しばしば深尾家を訪ねて交流していました。

上京から3年後の昭和9年、克己22歳のとき、「池田写真館」に空き巣が入り、それを通報すると、書棚の本を見た刑事から左翼活動を疑われ、そのまま家宅捜索が入り、克己は神楽坂署に検挙・留置されます。昭和6年に起こった満州事変が拡大した世相の中、アナキズム運動に対する弾圧が高まっていました。プロレタリア作家の小林多喜二が留置所で拷問死したのも、前年の昭和8年のことでした。

親戚の奔走で克己は釈放されましたが、吉野に連れて帰られました。

詩壇デビューの頃

帰郷した克己は、隣町の下市口で写真館を開業します。

克己が、五條市出身の詩人で三木露風の門下生だった吉川則比古と、関東大震災以来芦屋に居を移していた詩人吉沢独陽の主催による「日本詩壇」の同人になり、詩の投稿を始めたのはその頃のことです。大阪を拠点に出版された「日本詩壇」は、関西地方詩人の活躍の場でした。

8月、克己は処女詩集「芥は風に吹かれている」を出版します。序文として、深尾須磨子が「池田さんに」を寄せました。

12月21日には辰己千世と結婚、新婚旅行は紀州の新宮・木之本でした。

昭和10年5月、新婚の克己は、詩句誌「風池」を創刊しますが、それから僅か3ヶ月後の8月25日に、妻の千世が嗜眠性脳膜炎で亡くなります。「風池」第3号は「池田千世追悼号」になりました。

「風池」第3号より

(前略)お前はあんなにも張り切った躯とあんなにも黒く大きな眼と、あんなにも高く秀でた鼻梁と、そしてあんなにも大らかな微笑みを持っていたではないか。お前が毎朝、青物屋から提げて帰る籠の中にはお前の大好きな葡萄と真桑瓜があんなにも新鮮にこぼれていたではないか。お前が死ぬなんて、何という嘘がこの世にはあるのだ。(中略) お前の為に くだらない世に棲み、お前の為に俺はこんなにも白々しくとぼけていけて生きてきた。嘘がお前を奪った。お前はもう泣きみそとは言ってくれぬ。俺は怖れげもなく女々しくなるだろう。(後略)

 

隔月で刊行された「風池」は、その後 第6号で終刊し、そのころ知り合った上林猷夫が日垣又信、宮崎讓、島崎曙海たちと出版していた「関西詩人」と合併します。そして同じ年の10月、克己が編集・発行人となり、「豚」を創刊しました。B6判・コットン紙58ページ、頒価25銭だった「豚」は、第11冊から「現代詩精神」と改題、昭和18年2月の第17冊まで続きました。

昭和12年3月17日、克己は、「風池」「心の花」「一路」の同人だった藪恒子と結婚しました。

「心の花」は佐佐木信綱を中心とした、現在も続く短歌雑誌です。柳原白蓮、九條武子といったすぐれた歌人を輩出したこの雑誌で、恒子は、女流十人集の歌集「新樹」に名を連ねた歌人でした。

しかし、同じ年の8月に克己と恒子は結婚を解消します。

「豚」第4冊同人雑記「青春附記(4)」より

先輩、友人諸氏から好邁して貰った自分と藪恒子との結婚を今度解くことにした。理由については僭越と思いさし控えるが、この理由の如何に不拘。責任は男子自ら負うべきことと思っている。

 

翌昭和13年8月、克己は「豚」の発足人とひとりである詩人の渋江周堂に招かれ、九州を旅行します。そこで渋江は、家宝の刀剣備州長船祐貞を克己に授け、兄弟の盟をしました。

上海時代

それから1年後の昭和14年8月15日、克己は山下智子と結婚し、5日後の8月20日、第1回国民徴用令を受けて中支に向かって出発しました。工業学校建築科を卒業していたことで徴用令を受けた克己は、陸軍軍属として支邦派遣軍総司令部に配属され、上海付近の上海付近の建築工作に従事しました。

昭和15年2月、戦地にいる克己が不在の豚詩社より、同人たちのはからいで第2詩集「原始」が刊行されます。「原始」は豚詩社から出版された詩集の第2集目にあたり、1集目は、渋江周堂の「四次元準立方体詩派宣言」でした。克己の詩法である人生的な原始主義(バーバリズム)の名を冠したこの詩集には「此の詩集はいま中支戦線にある池田克己の為に編む」と記され、同人14名の名前が連ねてあり、渋江周堂によるあとがきが寄せられていました。

昭和16年初夏、克己は、中国浙江省の鎮海、石浦、海門鎮、瑞安付近に上陸する「浙東作戦」(甲号(F一)作戦)の野戦建築に従軍しました。そのときの体験記「素木の谺」が「文藝春秋・現地報告版」に掲載されました。

その年の8月、上海で現地徴用解除された克己は、9月には一度帰国し、二週間滞在、19日には神戸出稿の船でふたたび上海に戻ります。

克己は上海閘北区宝昌路94号に住み、大陸新報社に入社しました。大陸新報社は朝日新聞の別働隊で、日本語で書かれた「大陸新報」と中国語で書かれた「新申報」二種類の国策新聞を出版していました。

大陸新報社では「新申報」の記者になった克己は、昭和17年5月に浙韓作戦で特派され、約40日間従軍します。長男の原が生まれたのは、翌月6月のことでした。

昭和18年4月、大陸新報社は上海在住の作家を集め、上海文学研究会をつくり、雑誌「上海文学」を創刊しました。「上海文学」は主に克己と、満鉄上海事務所調査部を経て、当時上海特別市政府に勤務していた小泉譲のふたりで編集し、昭和19年12月の第五巻まで発行されており、上海随一の日本語書店で、日中文化人の架け橋となり、魯迅とも深く交流していた「内山書店」から発売されました。

「上海文学研究会」には、「内山書店」の店主内山完造はじめ、のちに映画プロデューサーとして溝口健二の「雨月物語」「山椒太夫」などを世に送り出す辻久一などが在籍し、「上海文学」には武田泰淳も寄稿していました。また、共に編集していた小泉譲が「上海文学」第一号で発表した小説「桑園地帯」は、第17回芥川賞候補になり、第二号で発表された黒木清次の「棉花記」は第1回上海文学賞を受賞し、未完作品にもかかわらず第18回芥川賞候補となり、審査員から絶賛を得ました。克己自身も、詩作品のほかに小説「素木の谺」「大和し美はし」「ほおぴんぱお」を執筆しています。

昭和19年1月16日長女道が生まれ、その9日後に、克己は第3詩集「上海雑草原」を八雲書林から刊行しました。徴用中、建築工作の現場監督に携わっていた時期の作品約60編をおさめたこの詩集は、高村光太郎による序文が寄せられています。

3月には、写真集「新生中国の顔」をアルスから出版しました。「上海文学」と同じくプロパガンダとして出版されたこの写真集には、当時の国民政府立法院院長であり、上海特別市市長だった陳公博が序を寄せています。陳公博は、こののち、戦争が終わると日本に亡命し、日本政府も彼を匿いましたが、中国側から引き渡しの要求があると彼は日本側の制止を辞して帰国し、漢奸(日本に味方した中国の裏切り者)として銃殺刑にされました。

昭和19年7月、克己の「素木の谺」、小泉譲の「桑園地帯」、黒木清次の「綿花記」を「上海文学」から再録して、上海の大陸往来社から出版した合著小説集「新風土」を出版しました。

その同じ月、克己は詩誌「亜細亜」を編集・創刊します。発行者は草野心平でした。

「亜細亜」創刊号編集後記より

……南京から心平さんたちの「黄鳥」が出、上海から私共の「上海文学」、北京から「華北詩人」、濟南から「廟」などが出るようになり、夫々活溌な仕事が見られるようになった。
この事は、一寸気取った言葉を使わせて貰うなれば、中國に住んでいる日本人の夢の純粋さというもののギリギリな現れと云うべきであろう。
戦いはげしい今日にあつて、詩の雜誌が、私共のたのしい自信の中で生まれるということは、このことをヌキにしては考えられないことであるからである。
……心平さんとの話しであつた中華民国在住の全日本詩人をもつて出される雑誌への過程の第一歩として、ここに「亞細亞」が生まれることになつた、
第一輯は、漢口、南京、上海、つまり揚子江流域に住む詩人だけが集められたけれど、將来、北支、南支などの詩人の参加を迎えられる筈である。
更に又、中国現代詩人の紹介なども旺盛にやって行きたい考えである。
『亞細亞』が具体的に計画せられて、も早三個月余も経ってしまったけれど、これからは毎月確実に出したいと思っている。

 

「亜細亜」創刊の翌月、克己は第四詩集「中華民国居留」を上海の出版社、太平出版公司から刊行します。この頃克己は、上海北四川路にある「湖」というビヤホールで、80名以上の同人数を誇る「詩領土」主宰で、のちに中国現代詩の重鎮となる路易士(ルイス)・戦後「文化漢奸」として懲役3年の刑を受けることとなる柳雨生たちと交流しました。そして9月には、上海に旅行した高見順に会い、11月には南京で催された第三次大東亜文学者会議に、現地代表として招待され、土方定一、奥野信太郎、佐藤(田村)俊子、内山完造、石上玄一郎、武田泰淳とともに出席しました。

昭和20年4月、太平洋戦争が激化するなか、克己は、家族を連れて帰国しましたが、6月には家族を日本に残して単身ふたたび上海に渡ります。しかし、上海は既に危険な場所でした。克己は、8月7日上海を脱出し、北京内二区喜鵲胡同にいた土方定一の家で終戦を迎えます。

8月19日、克己は土方夫妻とともに奉天行の汽車に乗り、北朝清津から帰国する予定で北京を出発しましたが、途中、唐山・開平間で共産軍の襲撃にあい、左胸貫通銃創と鼓膜裂傷を負い、8時間もの仮死状態に陥ります。救出され、天津貨物廠跡の日僑収容所で九死に一生を得た克己は、11月、引き揚げ船江ノ島丸で帰国しました。

日本未来派

帰国した克己は翌21年4月に上京し、東西出版社に入社しました。

東京では「豚」の同人仲間だった上林猷夫を訪ね、上林が勤めていた台湾有機合成株式会社大船工場の社宅で、こちらも「豚」の同人仲間だった佐川英三との共同生活ではじまりました。

6月には上林・佐川・克己の三人でガリ版刷の詩誌「花」を創刊します。上林猷夫が編集・発行人で、佐川英三が主に原紙を切りました。「花」は昭和21年11月の第四集まで続きます。第二集では、克己が上海で出会った高見順の詩が掲載されています。このときが高見の詩作デビューでした。

最後の「花」を出版した克己は、鎌倉市大町2288日比方に転居しました。

第四集まで発行された「花」は、終刊ではなく、新雑誌「日本未来派」への発展でした。
克己は、北海道に戻ってきていた上海時代の友人八森虎太郎を説得して紙の調達と経営を頼みました。

1947年2月25日付古川武雄宛池田克己書簡より

とに角ウス汚いジャナリズムにはとらわれない真に清新発(ママ)溂たるものにしようではありませんか。


「日本未来派」の創刊に先立ち、克己は、「花」の同人だった宮崎譲が昭和22年1月に出版した詩文芸雑誌「鱒」(赤絵書房刊)第1巻第1号に「血の花」を寄稿していました。

及川均、高橋新吉、北川冬彦、菊岡久利、佐川英三といった「日本未来派」の関係者となる詩人たちのほか、太宰治が「同じ星」を寄稿していた「鱒」は、6000部を全国流通させて売り切れていました。

この「鱒」をモデルに、克己は、「日本未来派」の発行部数を2000部に設定します。「日本未来派」は当時の詩に餓えた人々の目を惹き、紀伊國屋書店や神田冨山房の店頭では、百冊がたちまち売り切れましたが、流通の問題もあり2000部を売り捌くには至らず、返本が相次ぎ、合冊にしてまた販売するという状況でした。

詩誌と並行して「日本未来派」は詩集の出版も行いました。金子光晴「落下傘」高見順「樹木派」高橋新吉「高橋新吉の詩集」など、内容はもちろんのこと、装丁家でもある克己の手による製本もともにハイレベルな詩集が多く、長島三芳の「黒い果実」は第二回H氏賞を受賞しました。

克己自身も、翌昭和23年3月、克己は1936年から1947年までの作品から抜粋して「池田克己詩集」を日本未来派発行所から刊行します。そしてその翌月には第6詩集となる「法隆寺土塀」を刊行し、6月、上京から二年を経てようやく家族を鎌倉に呼び寄せました。

昭和23年8月9日から17日まで、克己は、藤村全集の写真撮影のために、上海で知り合った島崎藤村の息子・島崎蓊助と木曾を歩きました。島崎とは、翌々年の一月にも、同じ写真撮影のために馬籠を訪れています。

昭和23年10月に海口書店から刊行した「現代日本代表作詩集」で、克己は、小野十三郎、緒方昇・菊岡久利とともに編集責任者となり、その著者代表となりました。翌年、現代詩人会、日本文芸家協会の会員になりました。

昭和25年は克己にとって厳しい年で、まず1月に勤めていた東西出版社が倒産しました。さらには3月21日には田村町の胃腸病院に入院し、23日、副院長の近藤医師より90%もの胃を切除する手術を受けました。本人には胃潰瘍と告知されましたが、胃癌でした。経過は悪くなかったものらしく、7月には詩人で「日本未来派」同人の土橋治重の紹介で、鎌倉市役所観光課の嘱託として働くことになりました。

昭和26年、克己は、多田裕計・小田仁三郎・松下達夫・清水基吉・松山忠・小松太郎たちと鎌倉近郊の作家詩人の研究会「日の会」を創設します。

2月、克己は、現代詩人会編・第二書房刊「現代詩鑑賞」に「北川冬彦編」を、9月には「高橋新吉論」を担当執筆しました。また同じ9月には宝文館刊「現代詩新講」に「リアリズムとその批判」も担当執筆しています。そして、詩小説集「唐山の鳩」を日本未来派発行所から刊行したのも9月でした。

11月には国鉄札幌地方営業事務所の招きで多田裕計・江間章子・佐伯啓三郎と約十日間、北海道道南を旅行しています。翌昭和27年が明けても、菊岡久利の推薦で保高徳藏主宰の「文芸首都」で詩選の任につき、同誌の「実験室」に執筆を続け、児童雑誌「おもしろブック」でも詩選をするなど克己の仕事ぶりは果敢で、4月には次男の森も誕生しましたが、5月に鎌倉市極楽寺417へ引っ越すと、6月には自宅療養を余儀なくされました。

9月5日、胃腸病院の近藤博士の紹介で東大病院清水外科に入院した克己は、2回の手術を受け、二度目の手術では一時危篤状態になりました。克己の癌は、腸と食道に転移していました。

「ちょっと二週間ばかり入院して、元気になって帰って来る」

入院するときには、そういって気軽に出かけた克己でしたが、手術を終えて麻酔から醒めると。植村諦や土橋治重、上林猷夫の顔を見て、子供のように泣いて喜び、そして、寂しがりました。

「淋しいなあ、諦さん。人間はどうしてこんなに淋しんだろう」

12月29日に退院した克己は、叔父の手配で自動車で帰宅し、そのまま寝込みました。深尾須磨子の紹介で南箕診療所の蓮見博士・大曾根博士の治療を受け、丸山ワクチンの注射を続けました。

年が明けて1月、流行性感冒で衰弱した克己は、家族に看取られ、2月13日午後2時に41歳の若さで亡くなりました。
その前夜、克己は友人に囲まれているなかで、
「暗いから電気をつけてほしい」
「眼をあいてごらんなさい、ちゃんと電気はついていますよ」
妻の言葉に眼を開き、
「本当だ」
電気を眺めながら、
「なんだかゲーテの臨終のようだ」
と言って、それから口の中でなにごとかを呟いたのが最後でした。
死亡記事は新聞の全国版に掲載され、22日に行われた告別式は上林猷夫が詩界空前と書くほどの著名人が集まりました。

【参考】「日本未来派」57池田克己追悼号より 
     年譜
     近藤多賀子「その夜のマーガレットの花」
    陳齢  「戦時中の『亞細亞』と戦後の『新生』
         ――「中支」に発行された二種の邦字誌を巡って
    上林猷夫「詩人 高見順」「ことばと詩人」
    木田隆文「日本未来派,そして〈戦後詩〉の胎動」
        「古川武雄宛池田克己書簡」翻刻・注解/詩誌『花』復刻版