1912 明治45年 |
0歳 | 5月12日 奈良県吉野郡 父家治・母夏枝の長男として龍門寺村字平尾に生まれる。妹に久子と宇多子がいる。 |
---|---|---|
1918 大正7年 |
6歳 | 龍門村龍門小学校に入学。 |
1920 大正9年 |
8歳 | 小学校の担任教師として、詩人・植村諦と出会う。 |
1924 大正13年 |
12歳 | 吉野工業高等学校建築科入学 |
1930 昭和5年 |
18歳 | 吉野工業高等学校建築科卒業 |
1931 昭和6年 |
19歳 | 上京。親戚にあたる麹町三番町の長谷川写真館に住み込み、写真技術を学ぶ。 前年に上京していた植村諦と再会。 |
1932 昭和7年 |
20歳 | 牛込 薬王寺に家を借りて池田写真館を始める。 詩人・深尾須磨子に写真技術と人柄を気に入られ親交。 |
1934 昭和9年 |
22歳 | 池田写真館に芸術家が多く集まっていたことから、当局より家宅捜索を受け、神楽坂署に検挙・留置される。 帰郷。 下市口町で写真館を開業。 吉川則比古主催の「日本詩壇」の同人になる。 8月詩集「芥は風に吹かれている」を出版。 12月21日 辰巳千世と結婚。新宮・木之本に新婚旅行。 |
1935 昭和10年 |
23歳 | 5月 詩句誌「風池」創刊。(隔月刊第六号まで出版) 8月25日 妻 千世が嗜眠性脳膜炎で死去。 10月詩誌「豚」を創刊。 編集・発行人となる。 |
1937 昭和12年 |
25歳 | 3月17日 藪恒子と結婚。 8月 恒子と 結婚解消。 |
1938 昭和13年 |
26歳 | 夏 山下友子と出奔。上京。 8月 澁江周堂に招かれて九州に遊ぶ。 |
1939 昭和14年 |
27歳 | 8月15日山下友子と結婚。 8月20日 第1回国民徴用令を受けて中支へ向かって出発。陸軍軍属として支那派遣軍総司令部に配属され、上海付近の建築工作に従った。 |
1940 昭和15年 |
28歳 | 2月 第2詩集「原子」を豚詩社から刊行。 |
1941 昭和16年 |
29歳 | 初夏、従軍体験記「素木(あらき)の谺」が 8月、上海で現地徴用解除。 大陸新報社に入社、「新申報」の記者になる。 9月帰国。 9月19日神戸出港の船で上海へ発つ。 |
1942 昭和17年 |
30歳 | 5月より約40日間従軍。 6月、長男原誕生。 |
1943 昭和18年 |
31歳 | 上海にて上海文学研究会をつくり「上海文学」を刊行。 |
1944 昭和19年 |
32歳 | 1月16日、長女道誕生。 1月25日、第3詩集「上海雑草原」を八雲書林から刊行。 3月、写真集「新生中国の顔」をアルス書房から刊行。 7月、合著小説集「新風土」を上海の大陸往来社から刊行。 7月、詩誌「亜細亜」を編集・創刊。発行者草野心平。 8月、第4詩集「中華民国居留」を上海の太平出版公司から刊行。 9月、上海を旅行した高見順に会う。 11月、南京で催された第三次大東亜文学者会議に、現地代表として招待され、出席する。 |
1945 昭和20年 |
33歳 | 4月、家族を連れて帰国。 6月、単身上海にわたる 8月7日、上海を脱出、北京の土方定一宅に寄る。 8月15日終戦。 19日 土方定一夫妻とともに北京を出発。途中共産軍の襲撃にあい、左腕貫通銃創と鼓膜裂傷。8時間仮死後救出されて天津貨物廠跡の日僑収容所におくられる。 11月、引揚船江ノ島丸で帰国。 |
1946 昭和21年 |
34歳 | 4月家族を残して上京。上林猷夫が勤めていた台湾有機合成株式会社大船工場の社宅(大船町262)で上林猷夫・佐川英三と共同生活をはじめる。 東西出版社に入社、「旬刊ニュース」を編集。 6月、上林猷夫・佐川英三とガリ版刷詩誌「花」を創刊 11月、鎌倉市大町2277日比方に転居。 |
1947 昭和22年 |
35歳 | 6月、詩誌「日本未来派」を刊行、編集人となる。 |
1948 昭和23年 |
36歳 | 3月「池田克己詩集」を日本未来派発行所から刊行。 4月 詩集「法隆寺土塀」を大阪の新史書房から刊行。 6月家族を鎌倉に呼び寄せる 8月9日-17日、藤村全集の写真撮影のために、島崎蓊助と木曽をあるいた。 10月「現代代表作詩集」を海口書店から刊行。著者代表となる。 |
1949 昭和24年 |
37歳 | 現代詩人会、日本文芸家協会の会員になる。 |
1950 昭和25年 |
38歳 | 1月、勤めていた東西出版社が解散。藤村全集の写真撮影のため島崎蓊助と馬籠へ行く。 3月21日、田村町の胃腸病院に入院、手術。胃癌で、ほぼ9分の1の胃を切り取る。 7月 鎌倉市役所観光課の嘱託となる。 |
1951 昭和26年 |
39歳 | 鎌倉近郊の昨夏詩人の研究会「日の会」を創設。 2月、現代詩人会編・第二書房刊「現代詩鑑賞」に「北川冬彦編」を担当執筆。 9月、詩小説集「唐山の鳩」を日本未来派発行所から刊行。 9月、現代詩人会編・第二書房刊「現代詩鑑賞」の中の「高橋新吉論」を、賓文館刊「現代詩新講」に「リアリズムとその批判」を担当執筆。 11月、国鉄札幌地方営業事務所の招きで多田裕計・江間章子・佐伯啓三郎と約10日間道南の旅をした。 |
1952 昭和27年 |
40歳 | 1月より「文芸首都」(保田徳藏主催)にて詩の選をはじめる。同誌の「実験室」欄に執筆。 3月から児童雑誌「おもしろブック」(集英社)にて詩の選をはじめる。 4月、次男森生 5月、鎌倉市極楽寺417に移る 6月自宅療養 9月5日東大病院清水外科に入院。手術二回。癌は腸と食道に転移、二度目の手術は危篤状態におちいる。 12月29日、退院。深尾須磨子の紹介で南箕診療所の蓮見博士・大曾根博士の治療を受け、ワクチン注射をつづけた。 |
1953 昭和28年 |
41歳 | 1月、流行性感冒に罹り衰弱。 2月13日午後2時永眠。 16日、鎌倉市安養院住職・鳥居良禅の導師で密葬。 22日、鎌倉市安養院で、現代詩人会・日本未来派共催の告別式。 2月25日発行「別冊文藝春秋」に、高見順は小説「詩人の死」を書いて愛惜した。 4月「詩学」第8巻第4号に上林猷夫の「池田克己のこと」と遺稿「方三尺の空」掲載。 5月NHKよりお休み番組に詩「記録」「お伽の季節」が放送された。 |
【及川均編「池田克己年譜」(『日本未来派』第57号 池田克己追悼号)をもとに追記】