池田克己をめぐる人々

会田綱雄(あいだ・つなお)1914-1990
詩人。
南京における克己の知己
日本大学社会学科を卒業した後、1940年に志願して中国に渡り南京特務機関嘱託となる。南京にて詩人の草野心平・池田克己・武田泰淳を知り、この時期に詩を書き始める。 後に上海に移り、『黄鳥』『亜細亜』の作品を発表する。1947年、同人雑誌である『歴程』の同人となる。1957年、詩集『鹹湖』で第一回高村光太郎賞を受賞。 1964年、詩集『狂言』を思潮社から、1970年詩集『汝』を母岩社から出版。 1977年詩集『遺言』で第29回読売文学賞を受賞。
安西冬衛(あんざい・ふゆえ)1908-1965
詩人。
「日本未来派」同人。
1920年、父の赴任先であり当時日本の租借地であった大連に渡る。翌1921年、関節炎を患い右脚を切断、文学に興味を示し、1924年11月、北川冬彦らと詩誌「亞」を大連で創刊。その後「軍艦茉莉」「亜細亜の鹹湖」「渇ける神」等の詩集を出すかたわら「詩と詩論」「文学」等に拠り活動、現代詩人会会員。「春」と題した一行詩が有名。1965年8月24日死去。
安藤一郎(あんどう・いちろう)1907-1972
詩人。
「日本未来派」同人。
1928年東京外国語学校英語科卒業、東京府立第六中学校(現東京都立新宿高等学校)教師、1938年米沢高等工業学校講師、1939年助教授、1941年母校助教授、のち東京外国語大学教授、1971年定年退官。詩人、翻訳家として著述多く、日本詩人会会長を務めた。没後の1973年、『摩滅』で無限賞受賞。
池田 謙蔵(いけだ・けんぞう)1893-1974
経営者。三菱信託銀行社長。 克己の叔父。
克己と同じ龍門村平尾出身。克己が上京の際、親戚にあたる長谷川写真館を紹介し、克己はそこで一年間写真を修業した。克己が家宅捜査、留置されたときには奔走し、無事釈放させた。克己が最後の手術をした際には、帰宅を切望する克己に車を手配した。
東京帝国大学法学部英法科を卒業後、三菱合資に入社。1933年三菱信託銀行に転任。1946年社長に就任。1959年5月に会長、1965年相談役に就任。1958年藍綬褒章、1972年勲二等瑞宝章を受章。
石上 玄一郎(いしがみ・げんいちろう)1910-2009
小説家。
克己とともに第三次大東亜文学者会議に現地代表として招待される。
北海道札幌市に生まれ。弘前高等学校時代は太宰治と同窓。昭和8年(1933)、祖母の死に遭い、聖書や仏典に対する関心が生じた。昭和15年(1940)発表の『絵姿』で作家として認められ、以後『精神病学教室』『氷河期』『自殺案内者』『さまよえるユダヤ人』『激浪の青春 太宰治と私』などを発表。大阪成蹊女子短期大学名誉教授。    平成21年10月5日急性心不全のため死去。
和泉克雄(いずみ・かつお)1916-2010
詩人。
「日本未来派」同人。
東京都生まれ。アテネ・フランセ中退。1950-1980年「和泉熱帯魚研究所」を経営、おもにグッピー、卵生メダカ・卵胎生メダカを研究・繁殖。日本グッピー協会会長を務めた。
乾武俊(いぬい・たけとし)1921-2017
詩人。
「日本未来派」同人。
大正10年和歌山市生まれ。戦時中から戦後にかけて教壇に立ちながら詩人として活動。第一詩集『面』(東門書房、1952)、第二詩集『鉄橋』(日本未来派発行所、1955)を出版。第一詩集『面』(東門書房)。1959年、大阪に居を移し、中学校教員として同和教育に深く関わる中で、被差別地域における民話や伝承の聞き取りを積極的に行う。その後、大阪府教育委員会指導主事、和泉市教育次長、和泉市立光明台中学校長を歴任。退職後は大阪府教育委員会などによる大阪府下の民俗調査に参加し、また大阪教育大学の非常勤講師を勤める。(『民俗と仮面の深層へ 乾武俊選集』より)
植村 諦(うえむら・たい)1903-1959
詩人。アナキスト。
克己が小学校3年生の担任教師として出会って以来、生涯の師となり、友となる。克己の告別式では葬儀委員長をつとめた。
吉野小学校の教諭をしていたが水平社運動に関係して職を追われ、朝鮮に渡って独立運動に参加。朝鮮から強制退去させられる。
1930年に上京して、秋山清らとアナキズム系の詩誌『弾道』『文学通信』を編集。1934年に発足した日本無政府共産党では党中央委員長兼教育部長を務めるも、翌1935年に発生した日本無政府共産党事件に連座して検挙され、8年間の獄中生活を送る。戦後は日本アナキスト連盟結成に参加。『コスモス』『日本未来派』同人。
内田義廣(うちだ・よしひろ)1906-1988
詩人。
「日本未来派」同人。
山梨県生まれ。笛吹市石和町出身。教職に就きながら、詩の同人誌「中央山脈」を創刊、『花の群落』『笛吹川の水辺にて』などの詩集も発表している。また山梨県内の校歌作詞にも携わっていた。
梅木三郎(うめき・さぶろう)1903-1975
新聞人。作詞家。
「日本未来派」同人。
本名黒木貞次郎。大正13年大阪毎日新聞社入社。文化・事業各部長を経て、昭和21年新大阪新聞編集局長。23年毎日新聞に帰社し、社会部長、事業本部長、編集局顧問を歴任。26年毎日球団取締役就任。パ・リーグ理事長。32年辞任。作詞家として「長崎物語」「空の神兵」等を作詞。「君は窒素だ」「藍より蒼き」などの著書もある。
内山 完造(うちやま・かんぞう)1885-1959
書店主。文化人。
岡山県出身。
克己が参加した上海文学研究会メンバー。「上海文学」出版。
1913年に上海に渡り、参天堂(現・参天製薬)の出張販売員となる。妻の内職用にはじめた書店が成功し、1930年より「内山書店」の経営に専心、上海随一の日本書書店となる。
日中文化人や文芸愛好家のたまり場となった。「内山書店」は、日本の文化人が中国の知識人と交流を持つ窓口となり、谷崎潤一郎や佐藤春夫などが訪れ、また内山と深く交流していた魯迅は、内山を通し、金子光晴、武者小路実篤、横光利一、林芙美子、野口米次郎、長与善郎らの作家・詩人、長谷川如是閑、室伏高信、山本実彦らのジャーナリスト、塩谷温、増田渉らの中国文学者、禅の大家である鈴木大拙らに面会した。
1950年日中友好協会理事長となる。1959年北京で死去。
日本の敗戦で上海の内山書店は閉鎖したが、1935年に東京世田谷で開業し、1937年に神田神保町に移転した内山書店は現在も中国・アジア関連書籍の専門店として経営を続けている。
内山登美子(うちやま・とみこ)1923 - 2012
詩人。児童文学者。
「日本未来派」同人。
神奈川県生まれ。神奈川県立横須賀高等女学校(現・神奈川県立横須賀大津高等学校)卒。日本児童文芸家協会顧問。2008年日本現代詩人会より「先達詩人への敬意」にて表彰される。
江間章子(えま・しょうこ)1913-2005
作詞家。詩人。
「日本未来派」同人。克己の最後の北海道旅行に同行した。
代表作に「夏の思い出」、「花の街」などがある。1972年に朝鮮画報社から出版された『万寿無疆』に、詩「金日成首相は地球の上のともしび」を発表している。1993年日本現代詩人会より「先達詩人への敬意」にて表彰される。
及川均(おいかわ・ひとし)1913-1996
詩人。
「花」「日本未来派」同人。「日本未来派」池田克己追悼号で年譜をまとめた。
水沢小学校、北京東城第一小学校などで教員生活をし、その間詩作をし、「北方」「岩手詩壇」などに発表。昭和13年「横田家の鬼」を、15年「燕京草」を刊行。戦後は「日本未来派」「歴程」に所属し、24年上京。小学館、集英社に勤務し、25年「第十九等官」を刊行。以後「夢幻詩集」「焼酎詩集」「海の花火」などを刊行。他に童話集「北京の旗」や評論「石川啄木」などがある。
大江 満雄(おおえ・みつお)1906-1991
詩人。
克己の詩友。大阪にて、上林猷夫と発刊していた同人誌「関西詩人」が、克己の「風地」と集合して同人誌「豚」が発刊された。昭和10年に上京した大江は「豚」に参加していないが、発刊までにメンバーを励まし、支えたひとりだった。「日本未来派」では、克己に「愛について書かないか」と依頼され第40号にに随筆「愛について」を、克己の死後「日本未来派」池田克己追悼号に献詩「「手の時」の作者に」を投稿し、その後も断続的に投稿が続いた。
高知県幡多郡奥内村(現・大月町)泊浦出身。1920年父と上京し、印刷会社に勤めて労働学院、日進英語学校の夜学に通う。1924年、生田春月と『詩と人生』を創刊、1928年処女詩集「血の花が開くとき」を刊行。1932年日本プロレタリア作家同盟に参加、数度検挙される。1951年現代詩人会発起人のひとりとなる。1979年同会より「先達詩人への敬意」にて表彰される。同会物故名誉会員。キリスト教とマルクス主義が一体化した人生派詩人とされ、ハンセン病患者にも心を寄せた。
大瀧清雄(おおたき・きよお)1914-1998
詩人。
「日本未来派」同人。
福島県出身。川端康成に師事。戦後は教壇に立ちながら詩人として活動。
緒方昇(おがた・のぼる)1907-1985
詩人。
「日本未来派」編集同人。
熊本県出身。支那学者緒方南溟の次男。早稲田大学専門部政経部卒業。アナーキストとして大杉栄の労働運動社、黒色青年連盟に属し、詩作を行う。1929年東京日日新聞に入社。33年シナ留学生となり、敗戦まで日本と中国を往復する。35年逸見猶吉の勧めで草野心平の『歴程』に参加する。
戦後は毎日新聞論説委員、『毎日グラフ』編集長、編集局理事などを務めた。71年『魚仏詩集』で読売文学賞受賞。
岡本潤(おかもと・じゅん)1901-1978
詩人。脚本家。
上京した克己が植村諦と再会し、連れられて出かけた解放劇場や解放文化連盟の集会で出会った。「豚」第7冊より同人。
大杉栄、クロポトキンらのアナキズムに共鳴し、大正9年、日本社会主義同盟に参加。大正12年、前衛詩運動に参加、壺井繁治、萩原恭次郎、川崎長太郎らと詩誌『赤と黒』を創刊する。昭和3年、第1詩集『夜から朝へ』を刊行、昭和8年、第2詩集『罰当りは生きている』を刊行したが、発禁処分・押収となった。昭和10年11月、治安維持法違反容疑逮捕、翌年2月に釈放されるまで拘留された。昭和11年1月、京都のマキノ正博によるマキノトーキー製作所の「企画部」となる。
昭和15年、花田清輝らと『文化組織』を創刊、1941年(昭和16年)、第3詩集『夜の機関車』を刊行。昭和17年、大映多摩川撮影所(現在の角川大映スタジオ)に勤務。
昭和20年12月27日に公開された田中重雄監督の『犯罪者は誰か』の脚本家として、「岡本潤」とクレジットされた。1947年(昭和22年)、アナキズムから共産主義に転向したが、昭和25年のレッドパージではに連合国軍最高司令官総司令部指令によるレッドパージで、岡本も追放者としてリストアップされた。1975年現代詩人会より「先達詩人への敬意」にて表彰される。
奥野信太郎(おくの・しんたろう)1899-1968
中国文学者、随筆家。与謝野晶子門下の歌人。子爵橋本綱常の孫。
克己とともに第三次大東亜文学者会議に現地代表として招待される。
京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。
北京留学を経て、1948年同大教授。中国文学を講ずる傍ら、数多くの軽妙な随筆で人気を博す。座談の名手としてラジオ・テレビに活躍した。著作に『日時計のある風景』『文学みちしるべ』『はるかな女たち』など。
小田 仁二郎(おだ じんじろう)1910-1979
小説家。
克己と鎌倉近郊の作家詩人の研究会「日の会」を創設する。
山形県南陽市生まれ。早稲田文学仏文科卒後、都新聞に勤める。戦後になって丹羽文雄の『文学者』に参加。1948年に真善美社の「アプレゲール叢書」の一冊として刊行された「触手」で文壇の一部からは評価されたが、その難解さから商業誌には迎えられなかった。1952年「昆虫系」で芥川賞候補、53年「からかさ神」で芥川賞候補、54年「塔の沢」で直木賞候補。またこの頃、『文学者』同人の瀬戸内晴美と知り合い、後に同棲同然となる。1956年に『文学者』が解散すると、同人誌『Z』を主宰し、瀬戸内、吉村昭、吉井徹郎、宇野義雄らが参加、後に北原節子(津村節子)が参加する。瀬戸内が『新潮』の同人雑誌特集号に書いた「女子大生・曲愛玲」が、1957年の新潮社同人雑誌賞を受賞すると、『Z』も注目を集めるようになる。『Z』は3か月ごとに定期的に発行され、吉村と北原が次第に認められるようになった。『Z』に連載していた時代小説「写楽」を認められ、小田は1958年5月から『週刊新潮』で「流戒十郎うき世草子」を連載し、これにより出版社からの出版の申し入れが来るようになった。同年秋に『Z』は廃刊する。その後瀬戸内、鈴木晴夫、宇野義雄と新しい同人誌を発行し、これは雑誌名も表紙もないという風変わりなものだった。これに小田は「写楽」の続編「北斎最後の事件」を書き、瀬戸内の書いた「東慶寺」は後の長編「田村俊子」の序章となった。1959年「蚤芝居」で時事文学賞受賞。小田の死去後、瀬戸内はかつての同人誌仲間たちと、小田を特集する同人誌『JiN』を刊行した
小野十三郎(おの・とおさぶろう)1903-1996
詩人。アナキスト。
上京した克己が植村諦と再会し、連れられて出かけた解放劇場や解放文化連盟の集会で出会った。「豚」第7冊より同人。「日本未来派」同人。
萩原恭次郎、壺井繁治、岡本潤らの詩誌『赤と黒』に参加し、アナーキズム詩運動に入る。1926年11月、第一詩集『半分開いた窓』を刊行する。1927年、雑誌「文芸解放」の創刊同人となる[2]。1930年、岡本潤・秋山清らと協力し、『弾道』を創刊した。1933年「解放文化連盟」を結成、大阪へ転居。1939年、大阪の重工業地帯に取材した詩集『大阪』を発表。吉本興業の文芸部に所属し、秋田實らと共に漫才台本を執筆していたこともある。1935年に日本無政府共産党ギャング事件が起きた際には、日本無政府共産党のシンパとして大阪府警察阿倍野警察署に拘束されている(起訴猶予により釈放)。1947年、戦時中に発表した詩論を収めた『詩論』を刊行。
1951年現代詩人会メンバーとして第1回会合に参加。1973年同会より「先達詩人への敬意」にて表彰される。同会物故名誉会員。
1952年帝塚山学院大学講師(のちに教授)。1954年に大阪文学学校を創設し、1991年まで校長として務める。小説・詩・児童文学などの講座を開設して、文学の大衆化や市民平和運動に指導的な役割を果たした。1975年、詩集『拒絶の木』で読売文学賞受賞。1977年から2年間、日本現代詩人会会長を務めた[要出典]。1979年『小野十三郎全詩集』。
上林 猷夫(かんばやし・みちお)1914-2001
詩人。
克己と同人誌「豚」「花」「日本未来派」を創刊する。克己の死後、「日本未来派」二代目の編集長をつとめた。
北海道札幌市出身。旧姓は高垣。生後6ヶ月で伯父の養子となり、大蔵省専売局官吏だった養父に従って全国を転々とする。同志社高等商業学校卒。大阪地方専売局を経て、高砂香料工業に勤務。取締役総務部長を務めた。
1952年『都市幻想』で第3回H氏賞受賞。1963年から日本現代詩人会理事長として、事務的手腕を発揮した。1987年日本現代詩人会会長。のち帯状疱疹で失明寸前になるが、回復。57年薩摩琵琶による、詩の朗読運動を始める。他に「機械と女」「遠い行列」「拾遺詩集」「詩人高見順―その生と死」などがあり、平成元年には「上林猷夫詩集」(自選)が刊行された。1992年日本現代詩人会より「先達詩人への敬意」にて表彰される。同会物故名誉会員。
金子 光晴(かねこ・みつはる)1895-1975
詩人。
「日本未来派」同人。昭和23年日本未来派発行所から克己の装幀で詩集「落下傘」を出版する。「池田君が死んだことは日本詩壇の損失だ」
渡欧して西洋の詩を研究し、詩集『こがね虫』(1923年)を刊行。作品に『鮫』(1937年)、『落下傘』(1948年)など。1969年日本現代詩人会より「先達詩人への敬意」にて表彰される。同会物故名誉会員。
兼松 信夫(かねまつ・のぶお)1910~?
詩人。
克己が参加した上海文学研究会メンバー。「上海文学」出版。「亜細亜」に執筆。「日本未来派」同人。
大阪出身。田村昌由らと詩誌「詩律」に参加。詩集「火の山」「蝉供養」など
菊岡 久利(きくおか・くり)1909-1970
作家。詩人。
「花」同人。「日本未来派」創始者のひとり。
本名、高木陸奥男(みちのくお)。横光利一に師事する。
青森県弘前市生まれ。旧制海城中学校中退。小説『怖るべき子供たち』で直木賞候補となる。1970年死去、葬儀委員長は親交のあった川端康成が務めた。銀座の愚連隊と交際があったため白木屋騒動の調停委員の一人に担ぎ出されたことがある。別名・鷹樹寿之介。
木原 孝一(きはら・こういち)1922-1979
詩人、放送劇作家。
中国滞在時~戦後にかけての友人
東京府立実科工業卒業。建築を学ぶ。北園克衛の詩誌『VOU(バウ)』に参加。中支派遣軍として出征。硫黄島より病気で帰国。戦後、詩誌『荒地』に参加。『木原孝一詩集』(1956)をはじめ多くの詩集が出版。昭和40年音楽詩劇「御者バエトーン」でイタリア賞受賞。雑誌『詩学』の編集者。
北川 冬彦(きたがわ ふゆひこ)1900 - 1990
詩人。映画評論家。1950-1952、1959現代詩人会幹事長。
克己の詩友。
『悪夢』(1947年)などの小説作品もある[2]。本名は田畔 忠彦(たぐろ ただひこ)。第1詩集『三半規管喪失』(1925年)を自費出版、詩誌「詩と詩論」を創刊し、新散文詩運動を展開した。1975年日本現代詩人会より「先達詩人への敬意」にて表彰される。同会物故名誉会員。
草野 心平(くさの・しんぺい)1903-1988
詩人。
克己が事実上編集をつとめた「亜細亜」発行者。克己の告別式に出席、弔辞を読んだ。喉を悪くしていた草野の弔辞は客には聞えなかったが、長い間、呟くように語りかけていた。没後26年の詩碑創立時には電報を送ってきた。
慶應義塾普通部を中退、中国広東の嶺南大学芸術科に学んだ。1928年に『第百階級』を刊行。1935年に逸見猶吉創刊の詩誌「歴程」に参加。その後南京の汪兆銘政府の宣伝部顧問となる。戦後、「歴程」を復刊して多くの詩人を育て、蛙を愛した。1955-56、1965-66日本現代詩人会会長。1977年日本現代詩人会より「先達詩人への敬意」にて表彰される。同会物故名誉会員。
窪田 般彌(くぼた・はんや)1926-2003
詩人。 「日本未来派」同人。フランス文学科卒。早稲田大学教授を務めた。 カサノヴァの「回顧録」、伝記ほか、アポリネール、象徴主義詩などの訳書多数。 またフランス文学、フランス史他、近代日本の象徴詩人関連についても著作多数。
黒木 清次(くろき・せいじ)1915-1988
詩人。小説家。
克己が参加した上海文学研究会メンバー。「上海文学」出版。克己とともに合著小説集「新風土」出版。「日本未来派」同人。
宮崎県西諸県郡須木村生まれ。宮崎師範学校(のち宮崎大学)卒。小学校教員となる。1938年に富松良夫らと同人誌『龍舌蘭』を創刊。太平洋戦争中は上海に渡り、『上海文学』を創刊する。43年「棉花記」で芥川賞候補。戦後、宮崎市の日向日日新聞社(現・宮崎日日新聞社)勤務、のち同社社長。
小池 亮夫(こいけ・あきお)1907-?
詩人。
「花」「日本未来派」同人。
小泉 讓(こいずみ・ゆずる)1913-2004
小説家。
克己が参加した上海文学研究会メンバー。「上海文学」出版。克己とともに合著小説集「新風土」出版。
埼玉県川口市生まれ。慶應義塾高等部中退。満鉄上海事務所調査部をへて、上海特別市政府に勤務。丹羽文雄の『文学者』に参加。1943年「桑園地帯」で芥川賞候補。1949年『死の盛粧』で直木賞候補、50年『君が火の鳥』『南支那海』、60年『小説天皇裕仁』で直木賞候補。『小説天皇裕仁』はベストセラーとなる。日中文化交流協会会員。「じょう」と読まれることもある。
小松 太郎(こまつ たろう)1900- 1974
ドイツ文学者・翻訳家
己と鎌倉近郊の作家詩人の研究会「日の会」を創設する。
大阪府生まれ。1917年、慶應義塾大学予科に入学。1921年夏、慶應義塾大学を中退。1923年8月に私費でドイツ留学を果たす。ベルリン大学付属外国人学校でドイツ語を、ベルリン大学言語学科でドイツ文学を学んだ後、1926年6月に帰国。帰国後は雑誌『三田文学』を中心に創作・翻訳を発表する。その後、三越百貨店に就職してドイツ書籍の輸入に携わり、三菱重工に転じてからはドイツ語翻訳や図書室の管理を担当したが、その傍らで同時代ドイツ文学の翻訳も営々と怠りなく続けた。1974年7月13日、胆道障害のため自宅のあった鎌倉市の病院にて死去。享年74歳
今 官一(こん・かんいち)1909-1983
小説家。
「日本未来派」同人。
青森の生まれ。日本浪曼派にほんろうまんはに参加、叙情的なタッチで戦争体験や歴史をテーマとする小説を執筆した。「壁の花」で直木賞受賞。他に「幻花行」「牛飼いの座」など。太宰治と同級生で信頼を得ていた。「桜桃忌」を命名。
佐伯 啓三郎(さえき・けいざぶろう)1918-1991
写真家。
克己が「大陸新報」の記者であった時期に「中華映画」の撮影技師として出会う。昭和26年北海道旅行に同行。克己の告別式では写真撮影を担当した。
酒井 傳六(さかい・でんろく)1921-1991
翻訳家、エジプト研究家。文筆家。
「日本未来派」同人。
新潟県佐渡島生まれ。1943年東京外国語学校仏語部卒業。1955年から1957年まで朝日新聞社特派員としてエジプトに滞在。古代エジプトの研究・訳業著述に従事。1991年8月17日、頚椎損傷のため死去
佐川 英三(さがわ・えいぞう)1913-1992
詩人。
克己と同人誌「豚」「花」「日本未来派」を創刊する。克己の死後、経営を退いた八森虎太郎に代わり、「日本未来派」の経営を引き受ける。
奈良県吉野郡国栖出身。本名大田行雄。
詩集に「戦場歌」「佐川英三詩集」など多数あり、編著「高村光太郎詩がたみ」。
一九九〇年日本現代詩人会より「先達詩人」の顕彰を受ける
日本現代詩人会々員、日本文芸家協会々員
1990年現代詩人会より「先達詩人への敬意」にて表彰される。
笹沢 美明(ささざわ よしあき)1898-1984
詩人。
「日本未来派」「現代詩人会」の会で克己と知己となる。
横浜出身。東京外国語学校(現東京外国語大学)ドイツ語科を卒業後、ハイネによって詩に目覚め、リルケを始めとするドイツ語圏の詩と詩論を日本に紹介。新即物主義の先駆者。親の遺産を使い果たした後は貧困の中で暮らしていたが、戦後、昭和女子大学教授や工学院大学教授を歴任した。詩集に『蜜蜂の道』『海市帖』『美しき山賊』『おるがん調』『冬の炎』『仮設のクリスタル』など。三男は小説家の笹沢左保。自伝小説『詩人の家』に父の姿が描かれている。1975年日本現代詩人会より「先達詩人への敬意」にて表彰される。同会物故名誉会員。
佐藤(田村)俊子(さとう・としこ)1884-1945
小説家。
克己とともに第三次大東亜文学者会議に現地代表として招待される。
東京出身。日本女子大中退後、幸田露伴に入門、田村松魚と知り合う。明治36年「露分衣」を発表。その後、舞台女優となったが、44年「あきらめ」が大阪朝日新聞の懸賞小説に一等当選し、以後作家となり、「誓言」「木乃伊の口紅」「女作者」「炮烙の刑」などを発表。大正7年「破壊した後」の発表後、カナダのバンクーバーに行き、民衆社を経営したりする。昭和11年帰国し、作家として復帰するが、中央公論社特派員として中国に渡り、後に上海で華字女性雑誌「女声」を刊行した。没後の36年印税を基金にした田村俊子賞が設置された。大東亜文学者会議から5ヶ月後、友人の中国人作家陶晶孫の家から人力車で帰宅途中に昏倒し、搬送された上海の病院で4月16日、脳溢血により客死した。
澁江 周堂 (しぶえ・しゅうどう) 1903-1945
詩人。
上林猷夫とともに同人誌「関西詩人」に参加した後、「豚」を創刊する。昭和13年に出版した「四次元立方体詩宣言」は克己が装幀している。同じ年、克己を九州に招き、家宝の刀剣「長船祐定」を授け、兄弟の盟をした。昭和15年、克己が徴用中に出版された「原始」の跋を寄稿した。
京都出身。昭和2年詩集「恍惚」、昭和13年「四次元立方体詩派宣言」を出版。戦死。
島崎 曙海(しまざき・あけみ)1907-1963
詩人。
「豚」第二冊より同人。「日本未来派」同人。
高知県生まれ。高知師範専攻科卒業後、安芸郡安田小学校の教員(訓導)となる。
この頃岡本弥太を知り、強い影響を受け詩作をはじめる。同人雑誌「南方詩脈」に草屋草平というペンネームで参加。昭和10年、教職を辞し渡満。南満州鉄道株式会社に入社。一か月遅れで渡満した詩人・川島豊敏とともに「露西亜墓地」を発行する。
詩誌「二〇三高地」を創刊。第1詩集『地貌』刊行。昭和16年満州詩人会に参加。詩誌「満州詩人」創刊。昭和17年詩集『十億一体』を刊行。宣撫隊員としてビルマ、マライなどに派遣される。昭和22年高知に引き揚げ、雑誌「日本未来派」の同人になる。詩誌「蘇鉄」を創刊。岡本弥太詩碑建設委員会の実行委員長に就任。昭和24年第3詩集『青鬼天に充つ』刊行。高知市職員組合長に選ばれる。高知刑務所の篤志面接委員として収容者の精神更生に尽力。昭和25年、高知県文化団体協力会を結成し初代会長となる。(昭和32年高知文学学校運営委員および詩部門の講師をつとめる。
昭和38年3月11日死去。
島崎 蓊助(しまざき・おうすけ)1908-1992
画家。
「日本未来派」同人。
父・島崎藤村の全集を出版する際、写真を克己に依頼。一緒に木曾や馬籠を旅行する。 藤村の三男として長野県で出生した。上京後は兄と共に画学校に通う中、村山知義と知り合いプロレタリア美術運動に参加、左翼運動への関心を高めていく。1929年にベルリンへ留学するが、千田是也らと共に共産主義理念に熱中していた。しかしナチスの台頭により次第に活動は困難を究め、1933年に帰国する。1944年に召集され、陸軍報道部員として中国戦線に送られる。前線では主に戦場のスケッチを描く作業に従事していた。父の世話をしていた兄・鶏二が南方で戦死したため、戦後は父の残した膨大な資料や未発表の原稿の整理に追われた。1970年になってようやく筑摩書房『藤村全集』編纂へのめどが立ち、画業に復帰、1971年に東京・日本橋の柳屋画廊にて初めての個展を開く。これが生涯で最初で最後の個展となり、以後も制作は続けていたが公式に発表することはなく、主に『歴程』で宗左近らのスポンサーとして裏方の活動を続けた。没後しばらく左翼思想家としての評価が高かったが、近年ようやくその画業についても再評価する活動が始まっている。
清水 基吉(しみず もとよし)1918- 2008
俳人・小説家。
克己と鎌倉近郊の作家詩人の研究会「日の会」を創設する。
昭和16年「鶴」に参加,石田波郷(はきょう)に師事。小説も手がけ,20年「雁立(かりたち)」で芥川賞。ほかに「白河」「夫婦万歳」などの私小説風の作品がある。33年俳誌「日矢」を創刊,主宰。句集に「冥府」「遊行」など。平成3年鎌倉文学館館長。平成20年3月30日死去。89歳。東京出身。英語専門学校卒。
杉本 春生(すぎもと はるお)1926 - 1990
詩人。文芸評論家。
「日本未来派」同人。
山口県岩国市。1947年、肺結核の闘病生活から詩作に入り、『芸南詩人』『日本未来派』『地球』などの同人となる。1955年、評論「『量』より『質』への変貌-現代詩は貧困か」で『文学界』懸賞論文入選。『抒情の周辺』『現代詩の方法』などの詩論集の発行、新聞や文芸誌への執筆や詩壇選者を務めた。札幌短期大学助教授、広島文教女子大学教授。H氏賞・地球賞選考委員。
高島 高(たかしま・たかし)1910-1955
詩人 。
「日本未来派」同人。
富山県出身。1933年萩原朔太郎ら選考のコンクールで16歳にして一等当選。1936年より北川冬彦主宰の詩誌「麺麹」同人。1938年第一詩集「北方の詩」を刊行。戦後は医師業の傍ら詩誌「文学組織」「文学国土」「北方」を創刊。「山岳地帯」「北の貌」などがある。
高田 敏子(たかだ としこ)1914 - 1989
詩人。
「日本未来派」同人。
女学校時代から詩作を始める。結婚後は主婦・母親の視点で日常生活の哀歓を平明な言葉でうたい、好評を得た。詩集に『月曜日の詩集』(1962年)、『藤』(1967年)、『夢の手』(1985年)などがある。
多田 裕計(ただ ゆうけい)1912 -1980
小説家。俳人。
克己と上海で知り合った詩友で「日本未来派」同人。克己の人生最後の旅行となった北海道へ一緒に行った。
福井県福井市生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒。在学中より横光利一に師事。卒業後に辻亮一、八木義徳らと同人誌『黙示』を創刊。俳人としても活動する。1940年より上海へ渡り、上海中華映画に勤務、1941年、『大陸往来』に寄せた「長江デルタ」で第13回芥川賞受賞。弟子に門田泰明がいる。
高橋 新吉(たかはし しんきち)1901 - 1987
ダダイスト詩人。
「日本未来派」同人。克己による執筆「高橋新吉論」(第二書房刊「現代詩鑑賞」) 。高橋を尊敬していた克己は、1度目の手術の病床で高橋の詩「留守と言え/ここには誰もおらぬと言え/五億年たったら帰ってくる」とお経のように繰り返していた。
愛媛県出身。若い頃から放浪生活を送るが、挫折して故郷に帰る。大正9年「万朝報」の懸賞短編小説に「焰をかかぐ」が入選。同年ダダイスム思想に強い衝撃を受け、「ダダ仏問答」「断言はダダイスト」などを発表。12年「ダダイスト新吉の詩」を刊行、ダダイスムの先駆者となる。中原中也にも大きな影響を与えた。13年小説「ダダ」を刊行。昭和3年頃から禅の道にも入り、9年詩集「戯言集」を発表以後は東洋精神や仏教への傾倒を深める。戦後も「歴程」や「日本未来派」同人として旺盛な創作活動を展開。「定本高橋新吉詩集」など多くの詩集のほか、「無門関解説」「道元」「禅に参ず」の研究書や、小説「ダガバジジンギヂ物語」、美術論集「すずめ」など、著作は広い分野にわたる。57年「高橋新吉全集」(全4巻・青土社)刊行。1975年日本現代詩人会より「先達詩人への敬意」にて表彰される。同会物故名誉会員。
高橋 忠弥(たかはし・ちゅうや)1912-2001
画家。
克己が上海に滞在していた時期の友人。
岩手師範卒。独学で油絵を習得し、戦時中は特派員として中国大陸に渡っていた。独立美術協会展に出品、昭和18年独立賞受賞。同年国際形象展で愛知県美術館賞受賞。1955年から約10年立教大学の美術クラブ「サパンヌ」の顧問を務め、多くの学生の指導にあたる。1965年傷心のままパリに渡り、帰国後は杉並のアトリエで活動を再開。2001年死去。
田木 繁(たき・しげる)1907-1995
詩人。元大阪府立大学教授。
「豚」14冊最終号にて寄稿。
和歌山県有田市出身。京都帝国大学在学中からプロレタリア文学運動に傾倒。昭和4年詩「拷問を耐える歌」、9年「松ケ鼻渡しを渡る」を刊行。のちに「詩精神」に参加し、戦後も「コスモス」などで活躍。杜甫研究家としても知られる。詩集「機械詩集」「妻を思い出さぬ為に」「田木繁詩集」、小説集「私一人は別物だ」、評論「リルケへの対決」「杜甫」、「田木繁全集」(青滋社)などがある。第20回関西作家クラブ賞受賞。平成4年海南市文化賞受賞。1986年日本現代詩人会より「先達詩人への敬意」にて表彰される。
高松 棟一郎(たかまつ とういちろう)1911 - 1959
ジャーナリスト。
「日本未来派」同人。
父は真岡町長や下野銀行支店長を務め、煙草元売捌所を営業していた高松 甚一郎。弟は洋画家でグラフィックデザイナーの高松 甚二郎。栃木県出身。1935年、東京帝国大学独文科卒。東京日日新聞(のち毎日新聞)に入社。ロンドン、ニューヨーク特派員となり1941年の日米開戦で交換船により帰国。戦後、1948年、『サンデー毎日』編集長。退社後、東京大学新聞研究所教授となるが、48歳で死去。
高村 光太郎(たかむら・こうたろう)1883-1956
詩人・歌人・彫刻家・画家
克己の第三詩集「上海雑草原」に序を寄稿。戦後、克己は高村を訪ね、写真を撮影している。克己の告別式に弔辞を送った。
本名は高村 光太郎(たかむら みつたろう)。父は彫刻家の高村光雲。
東京美術学校にて彫刻と洋画を学ぶ一方、新詩社に参加して『明星』に短歌を発表。大正3年口語自由詩の詩集『道程』刊行、同年長沼智恵子と結婚。翻訳『ロダンの言葉』(1916)等を刊行。精神を病んだ智恵子の看病生活が続き、昭和13年に智恵子が死去、昭和16年詩集『智恵子抄』を刊行。公的には戦争協力の姿勢を示し、戦争詩集『大いなる日に』(1942)等を発表。戦後は花巻で山小屋生活を送り、28(1953)年に十和田湖畔に裸婦二人像を完成した。
高見順(たかみ・じゅん)1907-1965
小説家。詩人。
昭和19年に克己が上海の文学者代表のひとりとして参加した第三次大東亜文学者会議に日本代表として参加し、知り合った。戦後は「花」への参加をきっかけに詩作をはじめ、「日本未来派」の同人となった。克己が路易士とともにモデルとして登場する短編小説「馬上侯」、克己の死にあたって「詩人の死」を執筆した。
出生に関わる暗い過去や、左翼からの転向体験を描き、昭和10年に第1回芥川賞候補となった『故旧忘れ得べき』で一躍注目を浴びた。その後も『如何なる星の下に』『いやな感じ』などで高い評価を受けた。詩人としても著名。日本近代文学館設立にも尽力し、初代理事長に就任。文化功労者(追贈)。
太宰治(だざい・おさむ)1909-1948
小説家。
宮崎讓(「豚」同人・「日本未来派」編集同人)が主宰し、克己も寄稿した同人誌「鱒」1号(昭和22年1月出版)に執筆。
昭和22年版「正義と微笑」の装幀を克己が担当した。
左翼活動での挫折、心中未遂や薬物中毒など紆余曲折を経て、第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。主な作品に『走れメロス』『津軽』『人間失格』。没落した華族の女を主人公にした『斜陽』は「斜陽族」という流行語を生み社会現象にもなる。坂口安吾、織田作之助らとともに新戯作派、無頼派と称された。
武田 泰淳(たけだ・たいじゅん)1912-1976
小説家。浄土宗僧侶。大正大学教授
克己とともに第三次大東亜文学者会議に現地代表として招待される。
東京出身。東大支那文学科中退。第二次大戦中「司馬遷」を刊行、その後、中日文化協会に就職、上海(シャンハイ)で敗戦を迎え帰国、47年『審判』『秘密』『蝮(まむし)のすゑ』と相次いで発表し、戦後作家として出発した。『「愛」のかたち』(1948)、『悪らしきもの』(1949)、『異形(いぎょう)の者』(1950)、『風媒花(ふうばいか)』(1952)、『ひかりごけ』(1954)と鋭い倫理性をもって、人間存在を告発する力作を積み上げ、一方で『人間・文学・歴史』(1954)のような優れた評論を発表する。55年以降その活動は長編小説中心となり、アイヌ民族解放を中心とする人間模様を描いた『森と湖のまつり』(1955~58)、権力者の構造を冷徹な女の視線でとらえた『貴族の階段』(1959)、現代における宗教と政治の関係を追究した未完の自伝的長編『快楽(けらく)』(1960~64)、何が正常で何が異常かという根源的問題を極限まで追究した代表作『冨士(ふじ)』(1969~71)など、戦後文学の記念碑的な作品を残した。晩年、脳血栓で倒れながら、口述筆記による『目まいのする散歩』(1976)も残された。
田村 昌由(たむら・まさよし)1913-1994
詩人。
同人誌「豚」時代からの友人。終戦直後北京で再会する。「日本未来派」同人。「日本未来派」四代目編集長。
北海道出身。昭和6年大陸に渡り、21年帰国後、国鉄中央教習所に勤務。「黎明調」「詩律」を経て「日本未来派」同人となり、42年より編集長をつとめる。詩誌「泉」も発行。詩集に「戒具」「蘭の国にて」「風」「下界」「武蔵国分寺」「続・武蔵国分寺」「八月十五日」など。
陳公博(ちんこうはく/チェンコンポー)1890-1946
政治家。
克己の写真集「新生中国の顔」に上海特別市市長として序を寄稿した
1920年代に中国共産党第一次全国代表大会の広州代表、中国国民党中央執行委員会常務委員を歴任した。1940年(民国29年)に汪兆銘が南京国民政府(汪兆銘政権)を樹立するとこれに参加して立法院長(中国語版)などを務め、1944年(民国33年)に汪兆銘が死去すると後継者として国民政府委員会の代理主席に就任した。敗戦後に一時的に日本へ亡命したがその後中国に護送され、漢奸として銃殺刑に処された。
辻 久一(つじ・ひさかず)1914-1981
シナリオライター。映画プロデューサー。
克己が参加した上海文学研究会メンバー。「上海文学」出版。
東大在学中から雑誌「映画評論」の常連執筆者になる。「シナリオ研究」「劇作」に寄稿。昭和14年に召集を受け、上海軍報道部勤務となり日本軍占領下の映画行政に当たる。18年に除隊、中華電影に入社、国際合作処所属。戦後大映京都撮影所に入社。溝口健二監督作品「雨月物語」「山椒大夫」をはじめ、数多くの作品をプロデュースし、31年に企画部長となる。46年大映倒産により退社後は「東芝日曜劇場」などのテレビドラマを執筆。映画「新平家物語」、テレビ「かみさんと私」などがある。48〜55年映倫管理委員を務めた。74年~80年にかけて『映画史研究』に連載された記事をまとめた「中華電影史話―一兵卒の日中映画・想記」(校註:清水晶)が凱風社より刊行されている。
土橋 治重(どばし じじゅう)1909- 1993
詩人・作家。
克己と「鎌倉新人会」をつくる。「日本未来派」同人。一回目の手術を終えた克己の就職先として、鎌倉市役所観光課を紹介した。「日本未来派」三代目編集長。
山梨県出身。サンフランシスコのハミルトン高等学校卒業。在米中より詩を書き、1933年帰国し実家で農業に従事。塩山(甲州市塩山)の向獄寺で中川宗淵から禅を学ぶ。1937年山梨民友新聞に入る。1939年朝日新聞社に入社。鎌倉に住み、川端康成、小島政二郎、林房雄、高見順らを知る。武田信玄に関する著書多数のほか、大河ドラマ関係の歴史小説を多く書いた。甲斐武田氏に関する著書も多数執筆した。また主著のひとつ『物語と史蹟をたずねて』シリーズは日本史を扱った大衆書として人気を博した。1992年、詩集「根」で第25回日本詩人クラブ賞受賞。はじめ詩人の武村志保と結婚するが、武村が死去したのち詩人の呉美代と再婚した。1985年日本現代詩人会より「先達詩人への敬意」にて表彰される。同会物故名誉会員。
富松 良夫(とみまつ よしお)1903 - 1954
詩人。作詞家。文芸評論家。
「日本未来派」同人。
教育家富松柏の長男として宮崎県都城市に生まれる。母方の親戚に有馬馨がいる。6歳のとき脊髄カリエスにかかり身体障害者となる。11925年に文芸誌「盆地」を刊行し、1929年に詩誌「白」を主宰。いずれもガリ版刷りであった。1930年に友人坂元彦太郎の助力により第一詩集『寂しき候鳥』を出版。1938年、黒木清次らと「竜舌蘭」を創刊。独学で美術論、音楽論、宗教論を書き、またフランス語を学び訳詩もした。周囲には敬慕する青年が多数集まり、特に戦後の混乱期には、宮沢賢治の話を傾聴する農村青年が多かった。晩年は文学講座やレコードコンサートの講師のほか、校歌や都城市歌(初代および2代目)の作詞などを行い、1950年には都城市文化賞を受賞。没後の1958年には「竜舌蘭」「詩学」「日本未来派」などに発表した詩やエッセイを集めた詩集『黙示』が実弟によって刊行され、友人瑛九が装画を手がけた。1971年、都城市立図書館前に詩碑が建立された。
豊島与志雄(とよしま・よしお)1890-1955
小説家・翻訳家・仏文学者・児童文学者。法政大学名誉教授。明治大学文学部教授もつとめた。日本芸術院会員。
「花」を持って飲み歩いて朗読したり、経済的に援助した。
東京大学仏文科在学中、久米正雄,菊池寛,芥川龍之介らと第3次『新思潮』を創刊,同誌に掲載した『湖水と彼等』で認められた。ユゴーの「レ・ミゼラブル」、ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」の翻訳で知られる。太宰治が晩年に師として慕い、親しくしていた。太宰治の葬儀で葬儀委員長をつとめた。
鳥居 良禅
写真家。詩人。僧侶。
克己が鎌倉で暮らしていた時期の友人。克己の自宅近くにあった浄土宗安養院の住職。安養院でおこなわれた克己の告別式で読経を行った。
北園克衛主催「VOU」の同人で僧侶。1957年國文社より『グラフィック詩集 石膏の菫』、1961年詩集「野分」を出版。1993年写真集「夜間飛行」が出版されている。舞踏家・土方巽の「疱瘡譚」「肉体の叛乱」の撮影クレジットに名前を見ることができる。写真評論家・金子隆一の再発見により広く知られる存在となった。
永瀬 清子(ながせ・きよこ)1906-1995
詩人。
「日本未来派」同人。克己没後26年詩碑建立の除幕式に出席した。
岡山県出身。
高等女学校在学中から佐藤惣之助に師事し『詩之家』同人となる。1930年、詩集『グレンデルの母親』を発表。1940年、その名声を得た詩集『諸国の天女』の序文は高村光太郎によるもので、生涯敬慕した宮沢賢治の追悼会での出会いが縁だった。またこの詩集によって、山内義雄や宮本百合子らに認められ、随一の女性文学者たちの仲間入りを果たした。1945年岡山県に帰り、農業に従事しながら詩作を行う。1949年第一回岡山県文化賞を受賞。1952年、詩誌『黄薔薇』を創刊。1955年ニューデリーで開かれたアジア諸国民会議に出席、帰途中華人民共和国を視察した。1987年『あけがたにくる人よ』で地球賞、現代詩女流賞を受賞。1995年2月17日、脳梗塞のため岡山済生会総合病院で死去、「紅梅忌」と呼ばれるようになった。1982年日本現代詩人会より「先達詩人への敬意」にて表彰される。同会物故名誉会員。
長島 三芳(ながしま みよし)1917 - 2011
詩人。
「日本未来派」同人。
神奈川県横須賀市生まれ。横浜専門学校(現在の神奈川大学)卒業。北園克衛の詩誌「VOU」に参加。1937年より中支を転戦し、負傷して帰国。戦後は「日本未来派」同人、「植物派」主宰となる。1958年、横浜詩人会設立に参加。現代詩人会会員。神奈川近代文学館評議員。1998年日本現代詩人会より「先達詩人への敬意」にて表彰される。同会物故名誉会員。
野長瀬 正夫(のながせ・まさお)1906-1984
詩人
克己の処女詩集「芥は風に吹かれている」に跋「わが友の生活」を寄せ、「日本未来派」にも参加した。
奈良県十津川村生まれ。十津川中学文武館(現・奈良県立十津川高等学校)卒業。在学中より詩作を開始。小学校教員、金の星社の編集者などをしながら、昭和初年、プロレタリア文学運動に関わって詩や少年小説を書き、戦後一時期少女小説を書く。金の星社顧問も務めた。
原田 種夫(はらだ たねお)1901- 1989
詩人。
「日本未来派」同人
大正14年福岡詩社に参加し、加藤介春に師事。昭和3年芸術家協会を結成し「瘋癩病院」を創刊。翌4年には全九州詩人協会を結成。「九州詩壇」や「九州芸術」で活躍し、13年に創刊された「九州文学」の主要同人となる。福岡文化連盟理事長もつとめた。「風塵」「家系」「南蛮絵師」などの作品のほか「原田種夫全詩集」「西日本文壇史」「萩の抄」「実説・火野葦平」「原田種夫全集」(全5巻)「九州文壇日記」(昭和4年〜平成元年)などの著書がある。九州文学賞(小説・第1回)〔昭和16年〕「闘銭記」,勲五等双光旭日章〔昭和48年〕,西日本文化賞〔昭和48年〕,福岡市文化賞〔昭和51年〕
土方定一(ひじかた・ていいち)1904-1980
美術史家。美術評論家。
克己とともに第三次大東亜文学者会議に現地代表として招待される。克己が上海が脱出する際、北京の土方を訪ねて頼り、一緒に帰国を目指した。克己の死から26年後に建立された詩碑の設計を担当した。
岐阜県生まれ。水戸高等学校時代から文学活動を開始し、東京帝国大学を卒業。1930年にドイツに留学。1935年詩誌『歴程』発足とともに同人となり、美術批評を執筆。1938年興亜院嘱託となり、1942年燕京大学華北総合調査研究所所員。
戦後の1949年、千葉工業大学教授に就任。1951年神奈川県立近代美術館(鎌倉市)副館長、1954年美術評論家連盟会長、1963年『ブリューゲル』で毎日出版文化賞受賞、1965年神奈川県立近代美術館館長、1968年芸術選奨文部大臣賞、1973年菊池寛賞受賞。
全国美術館会議会長を務めつつ「藝術新潮」などへの寄稿、現代絵画などの画集解説や、多くの「美術全集」編集・監修、新潮社「日本芸術大賞」の選考委員であるなど、長く美術評論界に君臨した。
平木二六(ひらき・じろう)1903-1984
詩人。
「日本未来派」同人。
室生犀星(むろう-さいせい)を知り詩作をはじめ,大正15年犀星の序文,芥川竜之介の跋文をつけた詩集「若冠」を発表し,同年中野重治,堀辰雄らと「驢馬(ろば)」を創刊。戦後は日本未来派同人。昭和59年7月23日死去。80歳。東京出身。東京府立三中卒。本名は二六(にろく)。詩集に「藻汐帖」「春雁」「鳥葬」など。
深尾 須磨子(ふかお・すまこ)1888-1974
詩人。作家。翻訳家。
上京した克己が開いた写真館で写真の腕と人柄を気に入り、以後生涯にわたって親交した。病が重くなった克己に医師を紹介し、克己はその医師を信頼しワクチン治療を行っていた。
丹波市出身。与謝野晶子に師事する。詩人で技師の深尾贇之焏と結婚。死別後、夫の遺稿集『天の鍵』を出版、その附録に深尾須磨子作として掲載した詩と散文「最終の旅が処女作となる。
大正14年(1925年)詩集『斑猫』を上梓すると神戸港から箱根丸でフランスに渡り、シドニー=ガブリエル・コレットと知り合い、モイーズにフルートを学ぶ。帰国後コレットの邦訳を行い、詩と音楽のグループ「ラ・ソシエテ」を作りサロンを開いていた。1930年詩集『牝鶏の視野』発表後、毎日新聞特派員としてフランスに渡り生物学を学び昭和7年(1932年)春に帰国、フランスへ生涯6度にわたって渡航した。
小説・児童文学など活動が多彩で、美空ひばり「あまんじゃくの歌」「旅路のはて」二葉あき子「たそがれのワルツ」ほか、合唱曲や学校の校歌などを作詞した。
1974年現代詩人会より「先達詩人への敬意」にて表彰される。
淵上毛銭(ふちがみ・もうせん)1915-1950
詩人。火野葦平の小説「ある詩人の生涯」のモデル。
熊本の自宅から送られてきた詩集を克己が絶賛。「日本未来派」7号で紹介する。
熊本県葦北郡水俣町(現・水俣市)に生まれる。本名・喬(たかし)。東京の青山学院中学部へ進学する。東京では、詩人山之口貘の知遇を得、のちのちまで交流は続いた[1]。脊椎カリエスを病んで青山学院を中退・帰郷。以後、寝たきりの生活を余儀なくされる。病床で詩作を始め、「九州文学」などに作品を発表。また戦後の1946年、水俣青年文化会議を組織するなど、郷里の文化活動の発展に貢献した。1950年、35歳で死去。
代表作に「柱時計」「寝姿」など。ユーモラス、また一面スケールの大きい詩風と評される。
水俣市わらび野に墓と詩碑があり、墓石には「生きた 臥た 書いた」と記されている。同市内にはもう一か所詩碑が存在する。1998年には市民により「淵上毛錢を顕彰する会」が組織された。
毛錢の詩には、幾人かの作曲家によって曲が付けられている。滝本泰三による男声合唱組曲『小さい町』(混声版もある)、清水脩による男声合唱組曲『毛錢三つの詩』、瑞慶覧尚子『淵上毛銭の詩による女声合唱組曲「約束」』などが代表的なものである。なお瑞慶覧尚子の作品は、2008年、熊本県立第一高等学校合唱団が全日本合唱コンクールで歌っている。
前 登志夫(まえ としお)1926 - 2008
歌人。
「日本未来派」同人。
奈良県吉野郡下市町広橋にて、父理策、母可志の二男として誕生。本名登志晃。旧制奈良中学(現・奈良県立奈良高等学校)に入学。同志社大学経済学部に入学するが、1945年(昭和20年)に応召、大学は中退。戦後まもなく詩作を始め、フランスやドイツの詩を学ぶ一方、柳田國男や折口信夫の民俗学にも傾倒した。1951年(昭和26年)に吉野に戻り、前川佐美雄を訪問。1956年(昭和31年)、詩集『宇宙駅』を刊行したが、やがて短歌に転じ、前川に師事。
1955年(昭和30年)、『樹』50首で第1回角川短歌賞最終候補(安騎野志郎名義)。1958年(昭和33年)に、角川書店『短歌』四月号にて、塚本邦雄・上田三四二らと座談会「詩と批評をめぐって」に参加。1964年(昭和39年)第一歌集『子午線の繭』出版。この頃より、テレビ・新聞・雑誌等で吉野を語ることが多くなる。1974年(昭和49年)大阪の金蘭短期大学助教授に就任。1980年(昭和55年)に歌誌『ヤママユ』創刊、2006年(平成18年)に第20号を刊行。1983年(昭和58年)以降、吉野に住み家業の林業に従事しながら、同地を中心に活動を展開。アニミズム的な宇宙観・生命観を表現した短歌を詠み続けた。歌集のほかに、吉野をテーマとしたエッセイ集も多数執筆した。2005年(平成17年)、日本芸術院会員となる。
真壁 仁(まかべ・じん)1907 - 1984
詩人。
「日本未来派」同人。
東北・山形に生まれ、農を営みながら詩作に打ち込み、地域を学び、平和・教育運動に従事してきた。1984年日本現代詩人会より「先達詩人への敬意」にて表彰される。同会物故名誉会員。
間野挺魯(まの・かつろ)1905-2000
詩人
「花」同人。
岡山師範学校を卒業後、教職につく。1933(昭和8)年、第一詩集『体温』を刊行する。日米開戦後は教職を辞して大阪の倉敷紡績本社に勤務し、機関誌の編集に従事した。戦後は農民組合に身を挺し、続いて村議等を歴任した。詩作は、特定の同人に属さず、独自の姿勢を貫いた。1971(昭和46)年に『間野捷魯詩集』を刊行、以後『歳月』『年輪』を刊行した。地元在住の詩人として地方文化の向上につとめた。
港野喜代子(みなとの・きよこ)1913-1976
詩人。
「日本未来派」同人。第一詩集「紙芝居」に克己が序文を書いた。
戦時中、疎開先の舞鶴で詩作をはじめ,昭和23年「日本未来派」同人となる。大阪文学学校講師としてつとめながら、詩を発表した。詩集に「紙芝居」「凍り絵」など。
宮崎 讓(みやざき・ゆずる)1909-1967
詩人
「豚」同人・「日本未来派」編集同人。
佐賀県嬉野村生まれの詩人、『神』『竹槍隊』などの詩集を発表。昭和22年1月赤絵書房より同人誌「鱒」を出版。昭和16年『竹槍隊』出版の折には太宰治に原稿を送り、それを読んだ太宰は序に「犯しもせぬ罪を」を寄稿し、「私はいま、この人の詩集に、一生懸命で序文を書きながら、かなりの名誉をさえ感じている。この人は、確実に、同時代の男だ」と書いた。宮崎は戦後ふたたび「鱒」出版の際太宰に寄稿を依頼し、太宰は「同じ星」を寄稿した。
森田素夫(もりた・もとお)1911-1961
小説家
東西出版社勤務時代の同僚。友人。「花」掲載。
群馬県北群馬郡伊香保町に生まれる。1942年、「冬の神」で芥川賞にノミネートされた。1955年「暗い眼窩」で文学者賞受賞。主な作品に「女中の四季」「温泉夜話」「女中部屋」がある。
八森 虎太郎(やつもり・とらたろう)1914-1999
詩人。
克己が参加した上海文学研究会メンバー。「上海文学」出版。「日本未来派」編集・発行人。創刊時より克己の死まで「日本未来派」発行人として、特に資金面で尽力した。
岩手県花巻市出身。昭和10年与田準一らが創刊した童謡雑誌「チチノキ」に参加、11年「童魚」同人。16年「詩洋」同人。同年中国へ渡り、「上海文学」に参加。戦後、札幌へ引き揚げ、22年池田克己とともに「日本未来派」を創刊、28年まで発行人。またアイヌ民俗の採集に尽力。昭和32年詩集「コタン遠近」刊行。
山之口貘(やまのぐち・ばく)1903-1963
詩人。
克己の詩友。「日本未来派」同人。
沖縄県那覇市出身。職業を転々とし放浪生活のなかで詩作、昭和6年「改造」を皮切りに、佐藤春夫や金子光晴などの支持を得ながらさまざまな雑誌で詩を発表する。率直でユーモアに溢れた詩は現代でも人気があり、高田渡などアーティストに採用されている。代表作「座布団」「鮪に鰯」など
柳雨生1917-
詩人。
上海の「湖」というビヤホールで克己と痛飲高談する。
上海でおこなわれた「大東亜文学者大会」第1回第2回に出席。戦後、反逆罪として3年間の刑を受けた。
路易士(ルイス)1913-2013
詩人。
上海の「湖」というビヤホールで克己と痛飲高談する。
当時同人誌「詩領土」を主宰し、同人は80名を越えていた。
戦後、台北で「モダニズム詩協会」を設立し、詩雑誌「現代詩」を編集し、モダニズムを提唱し、「現代詩の火付け役」と称賛された。
和田徹三(わだ・てつぞう)1909-1999
詩人。
「日本未来派」同人。
1930年頃伊藤整と同時に百田宗治主催の「椎の木」に参加し、文学活動に専念する。英詩の翻訳(ハーバート・リードの研究者としての実績)からモダニズムへと変貌。1997年「湾」で和田自身が《「湾」を形而上詩の研究とと実作の場にしよう》という沢村光博の提案を受け、私は《長編形而上詩の実験作品を連載することにした。》と述べている。また1970年頃《沢村光博はカソリシズムとコミュニズムの結合を企てていたし、私は親鸞思想へ激しく傾斜していった。このことが二人の間に溝を作り、沢村は「湾」去って2、3年で病没した。》とあり、《私は曽我量深、金子大栄両先生の著書に学び、親鸞に傾倒してきた。》とも述べている。評論家の言を待つまでも無く形而上詩の作り手であり仏教詩人であることを宣言している。真宗の依拠経典である『大無量寿経』から啓示を受けたと思われる「讃1」「讃2」の詩も「湾」100号に掲載されている。1993年日本現代詩人会より「先達詩人への敬意」にて表彰される。