エピソード

陳公博:池田克己「新生中国の顔・序(訳文)」より

かつて我國にあつた歐米のカメラマンといふものは、多く前以て或種の色眼鏡を用意し、或種の不純な意圖のもとに題材を求める傾向にあつた。
(略)
日本の諸君は正確なる觀點に立脚して、題材の核心を摑へ、この正しい藝術的製作過程を通じて、新中國の動態を逐一表現してきたのである。そしてこの事が、中國に對する理解と認識に、どれほど多く寄與するものがあつたかは贅言を要せざる所である。
池田克己氏はすなはち東邦の名カメラマンにして、第七藝術に對する深く豐かなる教養を有し、その詩人的慧眼は足跡の至るところにひらめき、多角多面の新生中國の姿態は、氏を得てよく黑白の畫面に表現されつくされたのである。今玆に、軍事、経済、文化、經濟等の各部門に亘り傑作八十幀を選出して一册となし題して「新生中國の顏」といふ。
池田氏のこの勞作が、諸種の文字による報道より、はるかに普遍的にして、有力なる效果をあげるであらうことは論を俟たざる所である。
(略)

民國三十二年十月 陳公博

澁江周堂:池田克己詩集「原始」跋より

(略)
著者の人間としての立派さ、藝術家としての巨大さについて、今更一言の說明をも致したくない。著者が身を挺して行ふ眞實は、一點の嘘僞の影も無い。虛僞こそは著者の蛇蝎の如く嫌ふものである。今の世に、凡そ得難い、巨人の如く毅然として立つ池田克巳。南京にあつて今や著者の精神は赫々と燃えさかつてゐるであらう。
(略)

昭和十四年十月十日 澁江周堂

内山完造「池田克己君を悼む」より

【略】

 君が上海時代を思い出すよ。はち切れる様な若々しい大きな身体で、写真機を両手で撫でながら、口角泡を飛ばして、侃々の論諤々の義を吐いて倦むことなかりし漫談の集いは何日までもいつまでも忘れられない楽しいものであった。
 私は何日も思うた。池田君という人間はあれだけ議論好きであって、而も詩人である。何んと考えても矛盾だ。常に不思議に思うておった。「豚」の同人としての池田君。「日本未来派」の同人としての池田君。私は君の詩を見て時には人が違った様に感じたことさえもあった。立派な詩集を出したことがあった。アルスから上海写真集を出したこともあった。私も寄贈の光栄に浴した。

【略】

然し池田君。「そけどなア!うっちゃまさあん。あんたのファンのうちの女房がナアー、一ぺんうちへ来て欲しいというてます。晩飯を食いにナアー」と、君が宝山路に家を持った時の招待の一言は其大阪なまりが忘れられない記念である。
 。

(一九五三・四・二三 於門司)

出典:「日本未来派」日本未来派 57号(1953年) 池田克己追悼特集号

島崎曙海「思い出すこと」より

私が大連にいた、くわしくいうとビルマから帰って、ほっとしていた一九四五年(昭和二十年)四月。池田が上海から陸行、釜山経由日本へ妻子を避難させる途中、大連にやって来た。

【略】

池田は例の口八丁、手八丁で、いっそうした友人をつくったのか、大連に十年いる私より手際よくのし歩いていた。

【略】

 話はその前になるが、私が「地貌」を出したとき、池田から装幀をさんざんくさされた。私も時分の装幀にそう自信もなかったし、また印刷屋の不手際で自分の思うとおりにはならかなったので苦笑した。その後、満州女性社か「十億一体」が出るとき、上海の池田に装幀を依頼した。おくってきた装幀は、箱の分まで揃っていて、大砲の砲身が大きくかかれ、それを花火がうづめていた。本は、大仏の頬をかき、飛行機がトンボのように数限りなく飛んでいるのだった。私は自分の金は一銭も出さないので、気が引けて、この豪華版を払う押しきらなかった。実にちゃちなものにして、実は表紙の字は私が下手糞にかき、扉に、池田描く大仏に飛行機の乱舞を入れた。出来上がりを池田におくると、またまた池田に叱られた。私の言訳をきいた、「気の小さい奴は駄目だ。押しの一手で出版屋をおしまくればいい」と教えられた。私はいまでもあの装幀をつかい、箱の絵も、と思うと、なんとかして、池田のいうとおり刊行しておけばよかったと考える。渋江周堂の「鳩と潮流」の箱絵に似たものが出来上がっていたと、かえすがえすも残念である。こうかいてくると、池田の助言から、私に対してくれた暖い友情を裏切ってばかりいたようで自分がいやになる。故意にそうしたわけではなかったが。

【略】

出典:「日本未来派」日本未来派 57号(1953年) 池田克己追悼特集号

高島高「池田克己の思い出」

今より十四五年前のことであるが、僕の下宿の近くに花田清輝が引っ越して来て、僕らのグループの(当時そのように云っていたのだが)の仲間入りをした。即ち、馬込から大井地方に住む、極く気の合った人たち数人の集りで、遠征隊として山之口貘も加わっていたわけだが、非常に家族的といってよい程の友情の厚い集りであった。花田清輝が、岡本潤、中野秀人という人々とはかって「文化組織」という雑誌をはじめた。僕も、なじみのひいきからか詩を書くように言われ、そこに詩を書いたが、そこへ、池田克己が、どういう関係からか、同じく詩を書いていた。詩は主として、上海などのことが出てくる中国を素材としたもので、後年程ではないが、比較的特異な傾向のものが多かったように思う。それだけに池田克己の名は印象的であった。その後、赤塚書房から「詩原」が出て、そこへは毎月詩を書いていたが、不思議に池田克己も殆ど毎号詩を書いていた。この時代に池田克己という名をはっきり覚えてしまった。僕は「豚」時代の池田克己をあまりくわしく知らなかったから、この大陸を素材に毎号書いている池田克己という人間に少なからず興味をもった。その頃の池田克己の詩は、後年ほど構成的でなく、むしろリリカルな作風だったように思った。なんとなく小野十三郎という名が思い出された。この雑誌に秋山清もよく書いていたが、何か作風に一種の類似点があったように思ったのは、僕の思いちがいであろうか。その後、僕は南方に出征して、しばらく内地にいなかったものだから、この間の克己の名を見出したのは、終戦後一年あまりの収容所生活を終え、二十二年に内地に復員してからで、やはり「日本未来派」の編集者としてであったように思う。「池田克己も元気なんだな」とその時は、何かたのもしい気持がした。僕の前からの知人では、扇谷義男、長島三芳、島崎曙海が元気で活躍していたのもうれしかった。僕は復員間もなく、文学国土(後の北方)を編集しはじめたので「日本未来派」と毎月雑誌の交換を行った。そして池田克己の詩に対する並々ならぬ精力的な意欲を知ったのであった。彼もたしか、僕の「文学国土」には非常な好意をよせてくれたので、そこではじめて、音信のやりとりをした。たとえば、僕が「文学国土」に発表した「空天の話」をいう詩について、とても好意ある批評の手紙をくれたりした。僕も、その頃の「日本未来派」に所載されている彼の詩について感銘して、何かと音信をした。それは、かつての「文化組織」「詩原」時代の作風とは非常にちがっていて、深く沈滞した重みのあるものであった。この人の詩に対する深化と熱意には感動した。そのうちに「北方」とあらためた「文学国土」も、印刷の都合で出なくなったし、𦾔「麺麹」の血縁として、「時間」が、北川冬彦主宰によってはじめられたので、僕は直ちに代表同人として加わった。「麺麹」の再興を誰れよりも望んでいた自分であったから。このことを、ある友人が山中鹿之助のごとしだねとひやかしたことさえあった。そのうちに、ネオ・リアリズム理論を裏ずける作品が思うように描けなくて苦しんでいる時に、池田克己から「日本未来派」に詩を発表するように云って来た。このことが、遂に永年の紙上における知己が本当の仲間になる機会を作った。即ち、同人参加である。その時の池田克己の手紙はあたたかく友情にみちたものであった。「未来派はセクト的な一切のものを排していますから、あなたは、時間の同人であるとともに、未来派の同人となって下さい」というのであった。
 しかし、その後、北川冬彦主宰の諒解を得て、一時「時間」をはなれ、「未来派」のみの同人となった。𦾔「麺麹」時代の事情をよく知ってくれた池田克己は、この時にも実にあたたかい心をくばってくれた。その後、全く骨肉のように親しくなった。「北陸の旅をして、是非あなたの家に生きたいとか、上京したら、直ちに歓迎会をやるとか」それはもう二十年来の知己のようになった。
 そして、池田克己の人なつかしさというものは、彼のよい性格の中でも、又特別なものだと思った。そして、こんなよい人が、胃の切断手術を行ったということを悲しんだ。
 いつも音信の終りには、手術後の健康を注意して下さいという言葉がはずせなかった。彼の死を知ったのは、この北特有な立山颪に雪が舞い散っている夕べであった。「池田克己!」僕は心の中でそう呼びながら、詩人の生涯というものを考えて、一晩中眠らなかった。そして、われわれが、この人生において、共にいみじくも詩の道を選んだということを。(一九五三年・三月二十三日・北方詩社にて)

出典:「日本未来派」日本未来派 57号(1953年) 池田克己追悼特集号

百田宗治「池田克己君」より

 

【前略】

 私が当時上海の大陸新報にいた池田克己君に会ったのは昭和十九年の秋、南京でのことで、それから半月あまりを、一しょに蘇州、上海などと遊びくらした。その時池田君が大和の吉野の人であることをはじめて聞き知った

【中略】

とにかく近代文化的には不毛の地と思われていたこの地方ー別して大和の山地からいつのまにかこういう尖鋭なわかい詩人たちが出てくるようになったことは、とくに大阪生まれの私などにとってはひとつの驚異でもあり、また思いがけぬことであった。池田君がその詩や小説のほかにカメラのあたらしい技術感覚の所有者であったり、またジャーナリストとしてもすぐれた才覚を備えていたことなどはなお一そうの「驚き」である。こういう人が、まだその若さで胃の宿痾で倒れるというようなことは全く信じられないことである。
 池田君があの短軀で、南支でゆききしている間もすっかり同行の高見君に馴れ親しんで、いきいきと少年のようにふるまっていた風姿が想い出されてくる。「日本未来派」は同君の不敵な野望が遺した唯一のモニュメントであろう。この人を喪った同人諸君、とくに古川武雄君の力落しにふかい同情を送る。

出典:「日本未来派」日本未来派 57号(1953年) 池田克己追悼特集号

高村光太郎「弔電」

ワガ ヤマニライカヲモチテイチハヤクタヅ ネコシカレトカタリシコトゴ ト」

我が山にライカを持ちていち早く 訪ね来し彼と語ることごと

森田素夫「池田君を悼む」より

終戦後、東西出版社という雑誌者に池田君と僕は一緒に勤めた。僕の方が少し早かったが、そこで、池田君は仕事好きの持ち前を発揮して、僕などの口を入れる隙もなかった。写真を主とした雑誌なので、彼の技術蔽いに役だったので、お陰で僕は大層、楽をさせて貰った。毎日二人でパイプタバコを呑吐して、毒舌を交わしていたが、結構面白く、暇をみつけては都内から鎌倉の古本やまで足をのばした。池田君の口角泡をとばす元気さをちょっと揶ゆするつもりで、君は詩人というよりも詩壇ジャーナリストだね、といった事があるが、その時、池田君は怒髪、天を衝くといった風に、僕を睨みつけて、何かいった。池田君の正直さ、自負、そういうものは、決して悪くはないが、日常座談の時、時々二人は突っかかった。が奇妙に、あと残りがなく明日はさっぱりとしていた。
【後略】

出典:「日本未来派」日本未来派 57号(1953年) 池田克己追悼特集号

植村諦「少年池田克己」より

池田勝己との交友は思えば三十年になる。しかし何時彼のことを考えても僕のイメージには真っ先に少年の彼の姿が浮んで来る。それは幾つになっても彼の中に少年のナイーブさと衒気が残っているためでもあるがまた僕の方には自分の子に自分の子は幾つになっても少年としか思えないあの親の動物的習性が残っているためかも知れない。僕が彼と毎日を過すようになったのは僕が学校を出て、彼の生地、大和吉野龍門村の小学校教員をしていた時で、僕が十九歳、彼が今の彼の長男原と同年の十歳頃であったかと思う。それで今長男の原を見るとよくもあんなに顔形、挙措動作まで己に似せて作ったものだと不思議に思う位だ。しかしその気質は原のように都会的な弱さとスマートさはなく、野生にみちてもっと能動的だった。 その彼を小学校三年から六年まで教えた当時の僕は学校では最も若い教師の一人で夢と理想に燃えていた時代だから田舎の封建的な慣習に反抗し、官僚の厳重な教育監督を無視して随分自由勝手な教育をやった。正規な師範教育を受けなかった僕の教育の指針になったものはルソーの「エミール」であった。大正末年の吉野の山奥でこんな自由教育をやる僕はしょっちゅう校長や学校からにらまれてばかりいたが、子供たちからは非常によろこばれ親しまれた。僕は彼らを連れて山野を跋歩して自然を観察させたり、動植物の採集や写生やったりした。そんな時池田はとても熱心でドンランでさえあった。その頃から彼は絵がうまかったが、何枚も何枚も画いては僕のところへ持ってきた。また放課後や日曜などには僕の自宅まで友人とともにやってきて、アンデルセンや小川未明、芥川などの童話をせがんだりしていた。こういうことが後年彼が絵を書いたり、詩を作ったりする最初の素地になったのかも知れない。
 

【後略】

(一九五三.三.一八)
出典:「日本未来派」日本未来派 57号(1953年) 池田克己追悼特集号

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