百田宗治「池田克己君」より
【前略】
私が当時上海の大陸新報にいた池田克己君に会ったのは昭和十九年の秋、南京でのことで、それから半月あまりを、一しょに蘇州、上海などと遊びくらした。その時池田君が大和の吉野の人であることをはじめて聞き知った
【中略】
とにかく近代文化的には不毛の地と思われていたこの地方ー別して大和の山地からいつのまにかこういう尖鋭なわかい詩人たちが出てくるようになったことは、とくに大阪生まれの私などにとってはひとつの驚異でもあり、また思いがけぬことであった。池田君がその詩や小説のほかにカメラのあたらしい技術感覚の所有者であったり、またジャーナリストとしてもすぐれた才覚を備えていたことなどはなお一そうの「驚き」である。こういう人が、まだその若さで胃の宿痾で倒れるというようなことは全く信じられないことである。
池田君があの短軀で、南支でゆききしている間もすっかり同行の高見君に馴れ親しんで、いきいきと少年のようにふるまっていた風姿が想い出されてくる。「日本未来派」は同君の不敵な野望が遺した唯一のモニュメントであろう。この人を喪った同人諸君、とくに古川武雄君の力落しにふかい同情を送る。
出典:「日本未来派」日本未来派 57号(1953年) 池田克己追悼特集号