本日の池田克己

村落より:第七番

《真昼間大阪で自分は見た
靴磨少年のハローハローを
中華料理屋のペンキの原色を
地下鉄構内の菰かむりの髪の毛を
屋台の上の賭博を
悪臭と喧騒の累々の皮膚を》

 疲れた駅からの五十丁
 月ノ木橋の上でようやく満月
 役場前の急坂で真正面の満月
 火の見櫓も
 一本杉も
 まぶしくかすむ雪の満月

   ポケットにラムネ玉 原は寝たか
   ラムネ玉にいくもいくつもの月
   鞄に千代紙 道は寝たか
   千代紙に雪の花火

 今夜
 青年団の芝居のどよもす国民学校
 窓窓明るい
 国民学校

   桶屋の留市は国定忠治 鍛冶屋の
   太蔵は悪代官 疎開のリエは
   売られる娘 寺垣内の三郎は日
   光の円蔵で
   昨日団長が話していったプログラム

山田に雪 芝居の幕は揚がったか

ああ
もう
竜門嶽
頂上の満月

2025年01月17日池田克己:村落より

絢爛たる魚

魚は言葉など吐かないが
オーストリヤの海岸にいるというピエルロプテリクスという奴は海藻のようにめらめらのびた皮膚を七色の波間にひるがえしているまるで乱舞する舞姫だ
チョウチンアンコウという奴は亦何て奇態だ 煙管のようなアンテナを額の上にかかげて三千尋の深海で発光している
ベンテンウオやイヌチゴやワカマツの豪華なひれ クサビマンボオやクマドリの目もあやな体紋
全くおどろくことだらけだ
ときどき自分は想うのだ
あいつらこそ人間などよりはるかに進歩した生物ではないかと
絢爛たる肉体衣装はもはや言葉を必要としないのだ
言葉はむかしむかし神にかえし
あいつら 今はあのように自在なのだ と

2025年01月07日池田克己:幻象詩集

どうしてお前は死んでいる そして俺は生きている

鎌田理市 中西信之 濱田乃木次 渋江周堂らの あの世へおくる水臭い手紙

あばたになった弾痕のアスファルトの上を歩きながら
瓦礫の山や灰燼の谷間を歩きながら
ねぢまがった鉄骨やガラガラのコンクリートを眺めながら
地を這いずる焼トタンの壕舎や痩せた人間の顔を眺めながら
俺が七年前に踏みしめていた
揚子江岸の壊れた町町
雑草に噴いている錆色や
天に跳ね返った階段
わいわいわいの襤褸の肩
そんな記憶を呼び覚まし
あのとき俺が思ったことと
いま俺が思うことが
まるでちっとも触れ合うものでないことが
不思議でもあるし
そんな人間の感性というものが腹立たれるのだ
むかし
理市は俺に自作の能面をくれた
信之はハウゼンシュタインの「造型芸術社会学」やグロッスの
 画集をくれた
乃木次は女をくれた
周堂は祐定をくれた
むかし
割箸職人の理市は労働や技工によって営まれる生活の実直面を
 無言で俺に示し
中学で一番うまい絵を描いた信之は俺に思想を皷吹しそれから
 三年間の牢獄だ
乃木次は女を捨てようとする俺の横ッつらを撲り裏日本の潮風
 に焼いた横顔で泣いた
長崎医学八代の名門周堂は「科学と詩」を説き酒場(バア)を出るときは
 女に触れた手や頬を消毒し血は大事だと鋭い眼差しで叫ん
 だものだ
そんな
お前や
そして俺も
相前後して戦線に出ていった
ろくに別れの時間もなく
ハガキだって一 二度きりだ
そして
俺はお前がどんな顔をして
銃を握っているであろうかというようなことなどさえ
考えたこともなかったのだ
いや
反戦主義のお前も
忠君愛国のお前も
人情家のお前も
理論家のお前も
同じ動作
同じ姿勢
同じ表情で
汗を出したりエイエイ言ったりしていることを
わざわざ思いかえすまでもなく
自然なことに過ぎないとだけは思っていた
無力も有力もまるで一つの日であって
俺がまだ余情ある日の遍歴の姿
共産主義
アナーキズム
民族主義など
なつかしい
しかしそんなことではも早顔色一つ変るものでないということ
 だけは確かに掴んだ
顔色一つ変らない俺は
たとえ何主義者であろうとも
何処の野末でいようとも
目先きに見た泥土の花は赤かったし
ただここにあるたったいまの肉体だけが総てであった
反戦主義のお前も
忠君愛国のお前も
反戦主義で死にはしない
中空愛国で死にはしない
苦痛は苦痛でどんなに切なく辛かろうが
死そのものの運命には
身動きもせぬ鷹揚さで
お前もお前も死んだんだ
そうしてすっかり同じ鷹揚さで
生きて俺は帰ってきた
生きていることも
死んだことも
こんなに同じい姿勢であるという時代に
俺達の年齢は過ぎたのだ
そうして
ビルマや河北や菲島の果てで
お前やお前が死んじまったことと
灰神楽の故国の町で
俺がこうして生きていることが
まるでちっとも触れ合うものでないことが
不思議でもあるし
そんな人間の感性というものに腹立つことは腹立つのだが
考えてみれば考えるまでもなく
力んだり励んだりしたことの結果でも何でもないんだという
 ことだけが分るんだ
たとえば
「かなしい」などというような言葉
思えば一生にあるかないかのこんなおそろしい心の動顚を
 あのころのお前もよく使ったし
俺も使ったが
今更何てだらしないざまだったかと昔の俺達がはずかしい
 じゃないか
「死ぬときはいつでも一緒だ」
そんなことを正気で言った俺が
ここにこうしてのうのうと生きていることも
死ぬ瞬間にまざまざと知った「あの時代」ということで
お前は俺を薄情などと恨みはすまい
「あの時代」を 生き残ったというぎりぎりのところでチャンと
 眼に入れた俺はそう信じる
ああもうこんなことより
俺が生きているこの世というものを
そちらのお前に通信しようか
先ず第一に
かなきり声で日の丸旗を振ったり
千人針をかざしてまわっていた小娘たちが
眼ほそめて
「物が」「物が」で愛の技巧だ
特攻隊の紅顔青年は
胸をたたいて度胸を売る
商売には玄人はだしだ
それから
黴の生えた何何主義たちの
かさぶたの比べ合い
新しがり合い
誰も彼も
生きている物的条件の総ざらいだ
格闘すべき 或いは憧憬すべき精神なんて一物もないこの世で
 は
人間元素体のおどろべき集積が
狭隘な国土に充満している
機械も科学も赤錆びのまま何処かの葦原に投げ捨てられてかえ
 り見られない
われわれの青春の日に夢見た精神共は
おそらくあれらの機械の中におそれをなして身を沈めているの
 であろう
(あの精神という奴とともに生きてきた機械たちこそあわれじ
 ゃないか)
物質の総反撃の前で
可憐な精神の行方をお前に見せたい
思えば
ケロリとお前が死んだことが
それからケロリと俺が生き残ったことに
触れ合うものでないことなんか当然だった
    ※
先日霙ふりの夕暮れ時 北鎌倉の吹きっ晒しのプラットホーム
 で 俺は電車を待っていた 凍るような時間だった やがて
 電車が入ってきた プシュッというれいのドア・エンジンの
 開く音がして まっ暗な中からどッと人間があふれ出てきた
 そのとき俺の鼻をかすめて頬を打ったむッとするような動物
 的な匂いと湿気
その時の匂いと湿気が
俺にこんな手紙を書かせたと
あの世のお前は思ってくれ

2024年12月10日池田克己:法隆寺土塀

同人誌「花」第一号空々録より

私たちは思想家でも政治家でもない純真無垢なる詩人であります。
戦争中も懸命に書きました。先の見通しなど少しも知らず、いやむしろ国家の大きな動きにはあわてふためいたり、オドオドしたり、感激したり、感傷したりして詩を書きました。
いやはやおはづかしい次第ですが、実のところそんな政治的、思想的なことにはちっともはづかしがってなどいません。
ただいい詩を書きたいばかりです。
いい詩とは何か。
花は何故美しいか。
あんまり理屈っぽくなることは止めましょう。(ほんとは理屈など知らんのですよ)


出典:木田隆文「日本未来派,そして〈戦後詩〉の胎動」

2024年11月29日池田克己:その他(散文)

植村諦「鎌倉の海-池田克己葬儀の日」

激烈と、冷酷と、虚無と、感傷を抱いて
一つの星が
また空の彼方へと落ちた

君はあのとき死の断崖に立って、僕に言ったね
-人類は何て馬鹿なことばかりしているんだ。
 あゝ寂しい。人間は寂しいね。

全く寂しいね。
死ぬことを少しも考えず
痛むことも意識しようとせず
ただ生きよう、生きようと燃え立った
君の四十年
僕との三十年
荒れ狂う世紀の中の互いの泥濘の道
今僕は君の骨を抱いて立っている
池田克己!
わが愛する少年、教え子
わが青春無頼の友
詩と眞実の同行者
君はこの世紀の中を突っ切り
つまづき、倒れ、立ち上り、
いのちの限りを生きて、
生きた!

僕は君の骨を抱いてここに立っている
生とは何か
死とは何か
愛とは何か
足の遅い僕は
君の駆け去った道を
のろのろと歩いている

春早く暗い空の彼方から
とうとうとひびいてくるのは
またも荒れ出した鎌倉の海のとどろきだ

出典:植村諦著「鎮魂歌」

2024年10月05日池田克己:エピソード, 植村諦

大対峙

満目 雪ふりしきり雪ふりしきり
満目 雪音なく沈み雪音なく消え

呑天倒の呑突倒のがちゃ囃子 無量無限の空の祭典
息をのむ黙(だんま)りの青藍錦 波の平板

海に降る雪
海に降る雪

2024年09月15日池田克己:幻象詩集

池田克己:「日本未来派」第二号より

一、とるに足りぬ人間を論評せず、但し吾人の尊重する人間に対して力めて評論を尽くしたい。
一、宗匠流の尻馬に乗らぬ。歯のうくようなことには反対。
一、仲間褒めはせぬ。歯のうくようなことには反対。
一、棺桶に片脚突っ込んだような詩や、柳暗花明的な詩は掲載しない。
一、公平を売り物にせず、着実な私見のみを談ず。
一、自分の文章をよくないなどとは言わない。
 以上のようなものはどうだろう。ところがこれは僕からの案文ではない。林語堂博士草するところの「論語社同人戒案」からの抜萃である。吉村正一郎氏の訳で「支那の幽黙(ユーモア)」という本にチャンと出ている。これを今のわれわれのものとしてさし出してみても、ちっともおかしくないではないか。

2024年09月09日池田克己:その他(散文)

港野喜代子「紙芝居」序文

 港野さんは、世話好きの、まめまめしい、小柄な、家庭の主婦である。
 日本の主婦の多くがそうであるように、港野さんの日常は、子供のこと、ご主人のこと、ご近所隣りのことで大変に忙しい。
 港野さんの詩は、そうしたありふれた日本の主婦の生活から、生きるもの、一種のはずみのように、弾力的な調子をもつて生み出される。
 おそらくチャブ台や、マナ板や、洗濯板の上で、港野さんは感情の陽影や、思索の起伏を、断続的に、すくいとめるのであろう。
 港野さんの詩の健康さ、その皮膚のぬくもりのようなリズムは、そのことをよく物語つている。
 たとえば「蚊帳洗う日」という一篇の詩を見よ。このさかんな確かさは、最初の一行から最期の一行に至るまで、ぎつしりと充溢したことの人の、日本の婦としての生の実証を示すものだ。
 緒方昇の首魁で、私が初めて港野さんの詩を目にしたのは五年前のことである。その時私は、その詩のみづみづしさと豊かさに眼をみはつた。そしてそのみづみづしさと豊かさは、日本の主婦という庶民の一つの典型から強く押し出されたものであることを感じた。それは当然素朴というものと繋がりながら、しかもおのづから賢明に、その身につけた社会性を重心としているものであつた。
 まっとうな主婦の性格から邪気なく、てらいなく吐き出された港野さんのような詩は、いまこの国で類多しとすることは出来ない。

一九五二年初夏   帰省中の奈良吉野にて

 

2024年08月28日池田克己:その他(散文)

「日本未来派」創刊号後記より

日本未来派は、一個の思想や概念の共通によって、結びつき発生されたものではない。各人それぞれがこの敗戦後の混沌の中に、未来に向ってたどろうとする。愛や誠実の協同による、連帯の場である。このような中から、現代詩の正しい性格の追及などというようなことにも、当然な懸命さが展開されて行くであろう。日本未来派は生々しいムーブマンとしての、切実さの中にある。

2024年08月27日池田克己:その他(散文)

中学生のための現代詩鑑賞:池田克己

※「中学生のための現代詩鑑賞」は、詩人が自作の詩を解説する企画です。現代詩人会の編集で寶文館より昭和26年に出版され、現代詩人会の詩人達が執筆をつとめました。 

新しい季節

 月はのぼった
 河鹿の声は葦の茂みの方だ
 葦の茂みには
 枯鞘と新芽が混っている
 その根元には水溜りがある
 よく注意してみると
 水溜りの水は少しづつ動いている
 もうじきここに
 二番子のカエルダマが孵るだろう
 葦の茂み分けて
 私たちは水溜りをみつけて歩いた
 肌がぢっとり汗ばんでこゝろよかった
 その時たしかに
 新芽がふっと匂った
 私たちは
 自分の周囲にあるものは
 みんな正確な自然であることを知った
 ああ
 私たちの胸はときめく

「新しい季節」を書いてから、もう十数年になる。これは当時、詩人である野長瀬正夫氏の編集によって出されていた「少女画報」という雑誌のもとめによって書いたもので、作者はまず最初に、その雑誌の読者である十六、七の少女を意識しなければならなかった。(この詩はのちに 昭和十五年-出版された私の第二番目の詩集「原始」に収録したのであるが、その時は 作品の終わりに「少女たちに--」という言葉を添えた。)
 ところで私たちが、通常詩を書く場合に、その詩の読者というものを意識することは極めて稀である。 これは現代詩というものが、他の文学とちがって、その詩を書く人間自らの、最も純粋な心のうったえに導かれた、自然な、止めることのできない、自発的な態度の結果するものであって、その詩が、他人にうったえるというようなことはほとんど考えの外にあるからである。
 しかしそのような説明は、少し専門的になるし、この本の出版の趣旨に沿うものでもないので、これ以上立ち入ることは控えるけれど、私は自分の詩の説明に先立って、例えばくぜんとにしろ、一応現代詩というものの生み出される特性の一端を、諸君に知っていてもらいたいし、私のこの「新しい季節」が、そうしたことの例外的な動機によって作られた詩であることを明かにしておかねばならぬと思ったのである。

さて「新しい季節」を書くに際して、私の念願としたのは、これまで一般の人たちが詩というものは、何か人間の日常的な生活や、現実的な自然から遊離した、特殊な感情や、甘美な抒情によって構築された、よそよそしい仮構の美であるとしているような常識に対して、こうした機会に、若い読者に、現代の詩が求め立至っている正しい姿の一つを示したいということであった。
 この詩は読まれるとおり、実にぶっきらぼうな、あるいはゴツゴツとした言葉と表現とで終始している。一般の人達の常識の中にある、所謂、詩的な 耳ざわりの良い雅語や、美辞麗句といったものは、どの一行の中にも 見出し得ない。そして、これも今日の詩の、正しい表現の姿であることを知って貰いたい。
 すなわちこれは、今日の人間の思想や感情を、最も忠実に表現するのは、たとえそれが、いかに粗雑なものであろうとも、今日の人間の生活によって生まれ、日常の使用語となっている今日の言葉であって、この言葉の機能の真実性を無視して、今日の詩は成立しないという、私達の詩観を示すところのものである。

 この詩のモチーフ(主題)や表現内容については、ほとんど説明の要はないであろう。
 晩夏から初夏にかけて自然の、ありのままの姿に対する正確な観察が、この詩の根本を支えているのであって、その観察によって掴えた自然というものから、成長期にある若い人達の、みづみづしい生命力の共感を導こうとしたのである。
 この詩は、「私たち」という主語によって、作者は、成長期にある若い人たちを代弁しているのである。いや実は、作者は、代弁を越えて、その若い人達と同じ年頃のものになり切ろうと努力しているのである。そうすることによってこの詩を書く動機の如何に関わらず、詩の真実感を充実せしめたかったからである。つまりこの一文の最初の方でいった「自らの最も純粋な心のうったえ」の状態に少しでも近づこうとしたわけである。
 この本の読者である若い諸君が、こうした作者の意図を理解し、素直な自らの心の声を導き出す習慣ができれば、おそらく諸君には、こういう詩は、もっと立派な純粋なものとして生み出されるであろうと思う。
 この詩には又、意味の理解に困難な箇所は一つもないと思われる。極めて平易なものである。しかしながら、そうした平易な言葉と表現の羅列にかかわらず、これが散文というものとの違いは、現実(自然)の選択に用いられた作者の眼にあるのだ。
  ありのままの自然を、写真のレンズが掴えるように、一切合財ただ細密に描写しただけでは詩にはならない。ここではそのモチーフである「新しい季節」が、この自然の万象の中の、どれとどれとにもっとも端的に、あるいは印象的に現れているか、その鮮明で簡潔な把握が大切である。
 河鹿の鳴いている葦の茂み、その葦の中には枯葦と新芽が混ざっていることや、その根元にある水溜りの水が、気温のぬくもりと一緒に少しづつ動いていること、あるいは、ふっと匂う新芽、といった掴え方に注意してほしい。
そうした冷静な、そして鋭い自然の観察によって導かれて、初めて「私たちは自分の周囲にあるものは みんな正確な自然であることを知った」という説明的な言葉も、詩的感動と結びついたものとなり、 そして又この抑制によって、「ああ 私たちの胸はときめく」という主観も、真実という重量を帯びた言葉となるわけである。

2024年08月10日池田克己:その他(散文)

佐川英三ノート(佐川英三陣中詩集「戦場歌」跋)

その頃、佐川英三と僕は、詩と生活を真向こうに、ふりかぶった、たたずまいのなかにいた。僕らは大和吉野川のせせらぎをこえた対岸に、お互の独居を持ち、もっぱら、その居において飯食む業を得つつ、詩雑誌《豚》に通じる限りなき貪婪な欲望をもって、毎夜、お互の室を見舞いあった。
 すなわち僕らは、詩と副食物の栄養価値にひたすら傾倒した。
 満ち足りぬ生活を思うまえに、僕らは仕事を捨てて、二子縄のごとき一匹の細鰻を狙って、ざんぶと碧澤に日暮らした夏の日。
 しかし二十歳を半ば出ぬ彼が、その驚くべき太い指の関節を抂げて、老幼男女の灸壷を、さぐり、艾を剪って火を点じ、又、大小の針をたわめて、その肉体のカン所に刺し透す悠然さは、僕をしても、甚だまごつかせるものがあった。
 どれほどの彼の患者たち、大方、肩のこらぬ町裏の民衆諸君に打ち混じって、僕ら深く彼を信じ、彼を愛したか。
 ああ、その頃の町裏連の皮膚のいろ、そしてマヒマヒツブロのごとき僕らの叙情詩の玉虫色は、いま北支の戦野を馳駆けする彼の頭に、どのように掠めることか。
 昭和十二年の夏、佐川は一枚の赤紙を持って、僕の室にやってきた。僕はその時、彼はその時、彼がどんなに甘さうに愛用のマドロスをふかせたかを忘れはしない。彼と僕は眼細めて笑い合っただけだ。
 彼の台所から、僕の台所に、いづれも彼が半ば食べすごした漬物桶、味噌樽、ザラメ壷、それに割木柴までが運び込まれた。
 大行李、佐川二等兵はかくて、職場に馬の轡を取った。
 彼の垢みどろ。彼はハッとした思いで、生誕以後の潔癖を、惜しげ無く捨てた。《ためにクリークの濁水は清められたと、僕は夢見た。》それは内地にある僕の無頼をあざ笑う、逞しいものであった。おそらく、彼の想像に絶して、大陸の地の果ては、極まりなかったことであろう。今や「詩」どころではない。「文学」くそ喰え、だ。も早、わが肉体よ、果て知らず行け、わが精神よ、目まいしろ。
 しかし、偉そうなことを云ったのは、彼の何者であったのか。彼は内地から送られた木偶人形を、脂汗で真黒にし乍ら、肌近く愛撫していると、そッと僕にささやいているのではないか。泥土から拾い上げた、ライラックの花弁に、身も世もあらず歓喜したのは、一体誰か。
 連帯行動の戦塵の底をついて、今、戦場高く打ち上げられた花火には、佐川英三の磨ぎすまされた、眼ん玉が包まれていた。無頼のなれの果てに、僕は涙流した。彼は町裏の患者の皮膚いろを思うだろう。
 明日の決河を控えた、アンペラの、ふしどで、いくらもいくらも詩の書ける今日の、佐川英三。行きつくところまで行け。僕は貴様の太い指を、さかねぢするまで握りたいだけだ。

 長谷川巳之吉氏に、佐川英三が、眼ん玉の位置を、誰よりもまつさきに、掴んで貰へたことは、この厖大な歴史にのたうつ、僕ら青年の任務の、どれほどの倖であるか。
 今頃、彼は、汚れた肌を、初夏の太陽に輝かせ、シャツでも洗っていよう。

昭和十四年五月 吉野川畔のあの机の上で

2024年08月03日池田克己:その他(散文)

詩人路易士

君は僕と同年
しかし君の鼻の下には立派な髭があり
君は僕より痩せていて
背丈は三四寸も高い
君の日本語に接続詞はないけれど
君は詩人だから
君の日本語は純粋にして
皆詩だ
(僕は下手な詩だ まだなかなかデス)と君はいう
しかし二人で歩いていると
(歴史の上を歩く四本の脚)と君はいう
馬上侯の夥しい老酒の甕を前にして
(この甕の一つ一つが一行一行の詩)と君はいう
老いはてた中国の文壇は君を軽蔑するだろう
君はそれを悲しまない
むしろ痩せた肩が聳えるだけだ
誰誰はいいといえば
君は大急ぎで
(僕よりまだいいか)と問う
君はたった一人の自分を おそろしく存分に信じている
けれど
それは君の傲慢ではない
始点はつねに一個だとなす天下の公理への忠実さだ
君の「詩領土」は同人が九十人になったといい
予約をつのり金を集め紙を買って
三百頁の詩集を出すのだという
多分君の計算は狂うだろう
しかしまるで一秒の間も新陳代謝を休まない
君の皮膚だけはきっと残る
だから君は明るい
ああ万事万象君にとってすべて詩であり
君の多忙さに僕も信じる
(日本と中国が喧嘩してから僕感口行きました 長沙行きマス
  貴州行きマス 雲南行きマス それから仏印 香港ダ)
君の放浪
君の回帰
今こそ大胆に君はいう
(二十世紀よさようなら
詩よさようなら
文学よさようなら
上海よさようなら
地球よさようなら)
(文化はない 希望はない 光りはない)
(中国の文学 今は無いデス)
訣別は君の勇気
絶望は君の「出発」
僕は君の三白眼から
必殺の剣を感じる
僕は君の離したことのないステッキの先きから
若い中国のかなしい怒りを感じる
君は老大国
リアリスト中国の
礼節を踏み躙った
「請請(チン チン)」の品のいい口元へ拳固をあてた
しかも尚君は
(世界の詩は日本から)という僕の言葉に
(世界の詩は中国から)と頑固にいう
ああ地球動乱の日の
かかる亜細亜の稚い諍いを
世界の誰が知っていよう
五十五元の竹葉青よ
六十五元の花彫よ
も一斤だけ買える二人の財布よ
君も貧乏
僕も貧乏
君の子供はよく病気し
僕の二人はよく泣く
しかし何と豊富な君と僕の饒舌
政治など口にしなくとも
もう充分だ
君はがむしゃらに中国を愛し
僕はがむしゃらに日本を愛し
君は僕らの友だ
君と僕らは充実している
髭を生やした君の若さは美しく
君のとぼけた必死な顔は
大変いい
ああいい

2024年08月03日池田克己:法隆寺土塀

淵上毛銭詩集

吉野の留守宅の方へ、熊本の田舎から淵上毛銭という人の詩集がおくられてきた。私には未知の人である。日本の詩の世界の中でも新しい名であると思う。

 すりきれた
 わら草履のうえに

 雀が
 寒く死んでいた
 ほそい足の泥が
 固く乾いていた

 そこは
 急いで通った    (暮情)

このような素直な詩を書く人である。

 花粉にまみれて
 蜜蜂が死んでいた
 片方の頭と羽を
 かるくつけ
 𦫿のようにとがっていた
 その花のしめった茎を
 蟻が一匹登っていた  (点火)

 その素直さが、この人の物を見つめる眼の密度となって現われている。
 そしてこの眼は、

 人間は
 あっという間に
 過去をつくってしまうように
 出来ている
 おお懐かしい背中よと
 背中が生きている限り
 過去も間違いなく
 安心してついてくる

 ついて来て呉れるので
 人間も安心なんだ
 やはり人間いつも達者で
 背中のことなど
 忘れていたい

 いつも
 すぐそこにある背中だが
 おいそれと見ることのできない
 さびしさよ   (背中)

 このような諦観的な人生観を育てていると思う。
 素直な眼で物を見つめるということが、その人間の環境的なものによって、それぞれの方向をたどることの一つの例を見るようである。
 この人の諦観はしかし、まだ種々の屈折を経てゆくであろう。そのような靱い面魂の感じられる人である。
 先日この人から初めて便りを貰ったが、
「最近何を考えても原子に行ってしまいますので、コントロールに苦しんでいます」と書かれていた。私はこのような人を知ったことによろこびを感じ、この人の詩の行方を楽しみに思う。

出典:「日本未来派」7号

2024年08月02日池田克己:その他(散文)

海の夜

鳴っている
海の夜
星のいっぱいある空と
昏い海の上をさしこうてくる波頭の白
僅かに起伏(おきふし)の分ち見える砂丘
鳴っている 野獣のような
轟 轟 轟 轟
   ああ
   かち合う
   ひそかな
   二人の歯音

二人の歯音に弾ける海の夜
二人の歯音に消える 轟 轟 轟 轟
海に墜ちる
無数の星の矢鏃
天に雪崩れる
砂丘の起伏

ふたゝび鳴っている
海の夜
僕は見た
君の眼の中の湖水(みづうみ)の色を
君は見た
僕の眼の中の山脈の形を
ああ鳴っている
轟 轟 轟 轟
その向うに
浮き上り沈む
二人の
故郷(ふるさと)
その
深い静寂

(草野心平編「日本恋愛詩集」より)

2024年08月01日池田克己:その他(詩)

ガラスの中の顔

乱れた髪が汗のしたゝる額にふりかゝって 何というもみくしゃの
顔だこの僕の顔は
行っても行ってもショウウインドで 行っても言っても僕の顔が僕の
眼の前にある 行っても行っても僕を引き連れて歩いているガラスの
 中の陰惨な僕の顔

やす子さんは死んでしまった 僕の知らないところを選んで 気配
もなしの素早さで

   上海では群がる黄包車におどろいた
   北平では西太后の装身具におどろいた
   そして引揚げてきて東京では--
   おどろいてばかりいたやす子さんが 最後はぼくをおどろかす
   《美しく生れたひとは一生おどろいてばかりいるものだ け
   れど僕の鬼面は 美しいひとの死の代償によってしかおどろ
   きに気付かない》

ショウインドに写った僕の顔は凄涼の気に満ちている
この顔が
やす子さんを思っている顔などと誰が思う

ああやす子さん
生きているこの世とは
ガラスの中の陰惨な自らの顔に追いまくられているようなところで

やす子さんが死んでしまって
生きていた日のやす子さんと 僕との距離の遠さを
鬼面の僕はさとらされる

 

(草野心平編「日本恋愛詩集」より)

2024年08月01日池田克己:その他(詩)

我が詩歴-最初の敗亡

 牛込薬王子、元の士官学校裏の、大道に面した四間取りの家で、僕は只一人で自炊生活をしていた。この家は、同じ屋敷つづきになっている大岡という子爵家の持ち家であった。
 この大岡子爵というのは、大岡越前守の末孫であるということであったが、実に愉快な人物で、ほん の何でもない行きががりから、僕に無類の好意をよせ、この家を家賃無しで、借してくれたのであった 。
 僕はこの家で、都市建築設計と、油絵と、写真をやっていた。写真というのはカタログ用の機械写真を作ることであったが、僕はいろいろな工場へ行ってさまざまの機械を撮影した。建築設計も油絵も金にはならなかったが、この写真の仕事は熱心にやれば相当な収入になった。しかし僕はこれで最低の生活費だけを稼ぐと、あとの仕事は絶対に断ることにして、ピカソばりの油絵を描き、建築設計に壮大な夢を築いて、一人で満足していた。
 この家に、たいてい日に一回モデルがやってきた。首の太い鼻の低い、しかし素晴らしい肉体美の、若い女であった。彼女は僕の汗臭い万年床の上にころがって、さまざまのポーズをとった。彼女は又家からポータブルを持ってきて僕にダンスを教えようとしたり、米を磨き、味噌汁やテンプラを作って僕の自炊を助けたり、なかなかの好意を示してくれたが、当時、甚だしくうぶな青年であった僕は、その好意を、決して好意以上のものとして受取らなかった。
 その内に彼女は、時々僕の製作をのぞきにくるコールマン髭の子爵氏と、腕を組んで街に出かけて行くようになった。そのような後で僕はよく、裏庭からのりこんでくる子爵夫人のヒステリにとっちめられて閉口したものであった。
 僕のこの家には、ずいぶんいろいろな人間が現れたが妙に詩人が多かった。なかでも、岡本潤、野長瀬正夫、植村諦、局清といった頃の秋山清、朝鮮の民謡詩人金素雲、それから女流の加藤壽美子、山本華子などがよくやってきた。僕は又この人達によって深尾須磨子、小野十三郎、草野心平、萩原恭次郎、高野壽之介時代の菊池久利などという詩人を知ることが出来た。
 しかし僕は別段詩を書こうとするようなこともなく、やはり主として油絵と建築設計をやって暮した。
 ところでそのように僕の交わっていた詩人は主としてアナキストであったにかかわらず、僕一人はコンミニズムを信奉していた。
 ある冬の日の夜明け前の時刻であった。僕は突然この家にちん入した人相のよくない四人の男共によってがんじがらめに縛られて表に投げ出された。外は一面の雪であった。この乱暴な男共は、僕を引き立てて、神楽坂署のブタ箱の中にほうり込んだ。
 僕は連日潜行コンミニストとして峻厳な取調べを受けた。僕が人から暴力を加えられたのはこれが初めてのことであった。
 ある日、取調べ中、僕の前に数葉の写真がつきつけられた。それは僕がひそかに清純な思慕をよせていた一人の女性の写真であった。「この女はお前の情婦だろう。こいつも引っぱってきて。ぶち込んでやる」
 特高刑事のその一言は僕を深い絶望におとし入れた。その女性は、母と姉の三人の、ひっそりとした女暮しの中で、美しい三十一字を綴っている竹柏園の歌人であった。
 僕はけだもののごとき特高刑事から、あくまでこの女性を守ろうとし、その住所をかくし通した。そのため僕の顔はすっかり歪まされてしまった。
 そして、やがて--
 僕は、それらの詩人の友とも、美しい女性とも別れて、大和吉野山中の、生れ故郷の家に帰って行った。
 そこで僕は無性に詩を書き出した。それが詩であるかないか、そのような内省も批判もなく、ただこみ上げるような敗北の思いにかられて、かつて東京で幾人かのともによって示された詩という形式に。自分のすべてをたたきつけた。 
 僕の処女詩集「芥は風に吹かれている」はこの時書いた約半歳の間の詩集である。
 昭和九年、僕の二十三歳であった。

(「詩学」1949年5月号より)

2024年07月31日池田克己:その他(散文)

池田克己:澁江周堂詩集「嶋の潮流」跋

 潮が洗ってすぎた岩礁の穴こぼには、ヤドカリがさまざまの恰好をしてうごめいていた。僕らはそれを見ていた。陽は昇ろうとしていた。浪が荒っぼい縞模樣をなして沖の方に続いていた。その縞模樣は豊富な色彩を含んで絕え間ない動作をくりかしていた。僕らはそれを見ていた。
 昨夜から飮みつづけていた僕らに連れ立って、未明に峠を越えてこの浜にきた長崎の町の三人の乙女たちは、白砂に円を描き、無心に鱗取りに耽っていた。紅を落した女の頰は、新しい太陽の光を受けて、赤ん坊のような色をしていた。僕らは又、それを見ていた。
沖の向うには大陸がある。それはわれわれの視覚に捕えられるものではなかった。しかし今われわれの立っている地点が地球の終点であると同時に、始点であるということを考へることは、たのしかった。
 眼に映る大きいものも小さいものも、ことごとく美しさに満ち満ちていた。ここから眼に見えないものも、われわれは心に描き出すことは出來るようであった。疲れを知らぬそのやうな慾望の伸張は、たのしかった。
 そうして誰が知っていただらう。あれから丁度一年目に、僕はこの海を渡ったのだ。今僕の眼の前には揚子江の濁流が拡がっている。この泥の尽きるところには紺碧の海がある。それを僕はもう知っているのだ。その海の向うには澁江周堂がいる。それを僕はもう知っている。これは確かなことだ。
 澁江を思うことは、僕にとっては望郷である。そして僕が支那にいるということは澁江と僕とに、もう一つの世界を引据えさしたことになると思う。
 そういう間隔のない距離の中に、僕たちは居る。僕達の中にあるものは歷史という時間だけである。僕の望郷に淚がないということは、この感激の結晶体の所以に外ならない。

 鉄橋のある山峽の町。粘板岩の波狀褶曲。石英のキラキラした砂礫に埋もれた吉野川原。鮎の背鰭の数えられる清流。烟りのマッスとなつてゆっさゆっさと身搖ぎをしている竹林。僕の住んでいた小さい町。長崎を発った澁江が、長子経世の脚を懷にして停っている。(あれから二年目の今日、飛行機で送られてきた「國民學校一年生」という詩を、僕は今読んだ。)
 澁江の孤独奴。経世の母のことよりも、僕は、澁江の内にかむさる経世のダブルエキスポージャを思った。
 澁江は経世のチンポコをとって小便垂れさせている。この小便は地球の外に漏れるかも知れないからだ。
 龍門嶽の北の背に、曳光が尾を流し、一脈のラインライト。
 澁江は居儀を正して、僕の壯行に掌を打った。
 古典のような彼の人情。

 僕らがささやかな習作をつづけてい雜誌「日本詩壇」に、「世界の暗憺たる歷史の一頁に、新鮮なペンが走り出した。一切の苦悶を否定し、花開く明朗な蒼空の下で何物にも拘泥せられず一切の独断を許さない本然の姿が最も単一な宣言となってここに現れた。西歷千九百三十六年四月十三日。大地には春雨が降っている。」といふ序によって初まり十数頁につづく長詩「四次元準立方體詩派宣言」が発表された。
この詩は次のやうな章によつて結ばれていた。
「(x-a)(x-b)(x-c)(x-d)=0 縱、横、高、『?』の規定なき規定の世界、時空なき時空の世界、現象なき現象の世界、無限立方體無限平面を包藏する無限準立方体に浮游する泡沫、人類とは、民族とは、社会とは?

(x-a)(x-b)(x-c)=0 縱、横、高の規定する世界、時空現象の過現未の、無限立方体に富裕する泡沫、人類とは、民族とは、社会とは?

(x-a)(x-b)=0縦と横との規定する世界、時間と空間との、無限平面に浮遊する泡沫、人類とは、民族とは、社会とは?

 この詩にはわれわれの眼に全く新しい澁江周堂といふ名が記されていた。僕はこの詩を、山峽の町から大阪へ通う小さい電車の箱の中で読んだ。そうして僕はこの厖大な詩を読み進めるためには、時々疲れた頭をもちあげて窓外を見なければならなかった。あの時の青葉の照りかえしは、今もって僕の印象に鮮かに殘っている。

 僕たちはひとしくこのような詩の出現に驚かされた。しかし驚いたのは僕たちの勝手なことに属していた。
 「日本詩壇」の月例の研究会の席で、初めて逢うた澁江という男はキチンとした服を着け、僕たちより遙かに年長の顏は、明るく、冷静に輝いていた。あの詩に驚いたと言ったら、彼はおそらく迷惑そうな顏をするにちがいはなかった。僕は素早く体を翻して、この日の会を脱した。(澁江よ、今は白狀する、あの時、僕は今よりずっと若かった。そしてあの研究会のあった喫茶店の階下には、一人の少女が僕を待っていた。僕はこの少女をつかまへて何の前置きもなく、今逢った澁江といふ男のことをペラペラしゃべった。)
 
 殆んど十年も昔に見えたり、つい今しがたのことのやうに思えたり、人間の親しい交りの中にあって、時間の流れというものは、何というどきつい懶惰の相を示すのであろうか?ここに澁江の事を思い浮べていると、停止した時間の真空函の中で、実にとりどりの衣裳を纏うた侏儒どもが前から後から、重なり、ぶつつかり、一時にドッと僕の限前を蔽いつくしてしまうのである。彼らを一列に並べさせることは、特技の所有者ということより以上に、尙それら侏儒どもの衣裳について鈍威な神経を持っていなければならないようだ。
 僕のこの一文のぶざまさは、謹嚴な詩人達に嫌われるに決まっている。しかし何でこの僕に、これら侏儒の衣裳をぬきにして「澁江詩は、」などと改まれよう。
 さて澁江詩は、「四次元準立方體詩派宣言」の中に、彼の志向も抱負も、眞つ正直に語られつくしている。しかも「縦、横、高、「?」の規定なき規定の世界、時空なき時空の世界、現象なき現象の世界、無限立方体、無限平面を包藏する無限準立方体に浮游する泡沫、人類とは、民族とは、社会とは、果して何であるか!」と正面に設問した方寸は、それ自らが高い掟となって、彼の詩脈にひびこうた。
 人は大胆な自信と言うかも知れない。しかしこれは、自分が例えどのような詩を書いていても、人類や、民族や、社会が持つ生理の歷史的な頂点から外れっこはないんだと、彼自らが言っていることなのにちがいはない。ここにわれわれは彼の、物を書く人間としての誠実を見るのである。
長崎澁江医学、八代の嫡流として、彼が恃するポイントに存在する科学の聡明と、人情の古典。
 澁江周堂という五尺の肉體が、宇宙のいとなみに結びつける直線。彼を通してわれわれは、宇宙というものが、笑いを噴きあげる少女の、のどぼとけのやうに、ぶよぶよとしてあたたかい可憐な体温を持つた生物であることを知らされるのである。
 彼の詩の意欲は、萬物生誕への激しい肯定の中から出発する。現代詩の多くがリリシズム喪失をその性格の一つとさへしている今日、彼のリリシズムの豁達さは、その意欲の出発中に求められるだろう。彼こそはニヒリズムの衝動で書かなかった最初の詩人であるかも知れない。「嶋と潮流」の中の「誕生は旣に完成であつた」は鮮かな言葉である。こういう言葉を吐き得た彼という詩人は、すでに一個の現実のごとき重量感を持つていると思ふ。
 おそらく彼は如何なる思想の虜となったこともないであらう。われわれは彼という存在の掌の中にころがされている思想を見せられるだけである。そしてわれわれは澁江の主宰する大きい世界の中に連れて行かれるばかりである。
 この芸術と思想の距離を判然たらしめたということは、彼が若年に一度持っていた詩筆を捨て、後年再び詩筆をとるまでの短からぬ期間を專ら科学の中に沈潜してすぎたことのたまものであるかも知れない。
 彼は今、自らの予言の中を、何物にもわざわいされず大股に歩いている。誕生は既に完成であつた。
 さて気付いて見ると僕も亦大方の常識のごとく、澁江詩の、甚だ凡庸な解析の中に入り初めたようである。これはこの稿の意図を外れてゐる。僕はのんびりと、われわれの私的昔語りをしたかったのだ。
 澁江詩のことなど、何も僕が吃り吃りしやべらなくとも、これらの作品が一つ一つ立派な発言となつて存在している。
 そんなことよりも、澁江の五人の男児たちはハダシで道を跳びまわり、この父親をハラハラさせていることや、長子経世が今年から学校に上ったことなどは、記念となることだ。
今僕の周囲には兵隊たちの安らかな寢息がある。僕のペンのサラサラいう音も、確に、澁江と僕のこの時代の記念だ。
 中支の春は、むせるやうに暖いと思うと、急に眞冬に立帰る寒さに襲われたりする。

(昭和一六年四月十六日中支邦雑草原の兵舎にて) 


2024年07月28日池田克己:その他(散文), 澁江周堂

歴史の中の表情-「新生中国の顔」制作に就いて


(覚書の一)

 いま、私がこの一文を草しているのは、上海開北の原ツばの中に新しく建てられた赤い煉瓦の家の内である。この支那式の防暑、防寒建の煉瓦の家には、チャンと日本の青畳が敷かれ、襖と障子が部屋を区切っている。
 そして、支那の気象と、日本の生理が一つに溶け合ってもたらしたこのような樣式の家の窓からは、かつて蔣介石が新上海建設を企図した広袤たる雜草の原が展け、日本の子供と、中国の子供が、かろうじて服裝だけで区別をつけねばならぬ同じい樣子で一緒になって遊んでいる。
 閘北--
 中支の戰鬪の中で、最も悽愴、苛烈を極めたというこの地帯には、つい此間まで商務印書館の戦跡が、まるで今もガラガラと音立てているような慘憺たる形相で、蓬髮のように鉄筋を空に逆立て、階段や壁面を宙に浮かせていたのであったが、今それらは、すっかり清掃され、その跡には新しい日本国民学校の校舎が、窓々に可憐で元氣な「サイタサイタサクラガサイタ」の声を溢れさせている。

 こうした新しい風景の中に生きている日本人としての、自分の時代的位置が、私のカメラをどのように方向づけてきたか。
 私は事変二年目の昭和十四年七月(民国二十八年)日本で初めて実施された国民徴用令による所謂白紙召集によって、支那派遣軍総司令部に配属を命ぜられ、生れて初めて、しかもかつてない動乱の只中にある中国の土を踏んだのであった。
 遅鈍な私といえども「中国を識る」ことに対する意欲の身内に滾るのを覚えぬわけには行かなかつた。しかもこの身辺周囲に満ち溢れている動乱中国の大衆の顏の中で、私も又凡庸に、欧米人の書き綴つた夥多な中国研究の書に眼を晒して行ったのであつた。しかしながら、それらの活字の物語る、さまざまの実相、推理といふものは、その驚くべき豊富さに不拘(かかわらず)、私の中国人に対する日毎の親近感の深まりと、次第に反比例して、私の血の反発を呼び起して行つたのは何としたことであらう。しかもこの事が、私にどのようないわれを教えたかということは、私の貧しい成長の中で、実に重大な事柄であつた。
 私は、彼らの知識なるものが中国という実体に対する観察者としての立場からもたらされたものであつたということに気付かねばならなかったのだ。
 一国の民族への接触に、彼らは愛情の代りに、観察の表現である科学なるものをもってのぞんだ。そこには当然、東洋民族に対する欧米民族の優位性が、彼らの自覚として前提づけられていた。この民族的自惚れは又、当然東洋民族を彼らの被搾取となす功利の尾を、露呈せずにはおかなかった。
 この功利の触手としての観察の眼は、彼らの科学への過信に裏打ちされて、民族の心理を、習慣を、風俗を、文化を、政治を、経済を、一個の物質と化せしめ、分析し、結論し、これらの厖大な業績を整えて行ったのであった。
 私の血の反発なるものは、かゝる彼らの根本姿勢に対する民族本能の憤りそのものであったのだ。もしとたとい数に於て少く、視野に於て狭くとも、われわれ日本人が中国に対して、例へば、内藤湖南の「支那論」を持ち、宮崎滔天の「三十三年の夢」を持つことに、よろこびと希望を覚えぬわけには行かなかった。
 観察者としてのそれが、どのやうに精緻、該博を極めたところのものであろうとも、それは遂に功利を暴露し、いやしくも民族の血の温くもりに触れるものであり得ないに反し、われわれの先輩の態度は中国に対する血肉的な止み難い愛情の必然の中に、言葉を代えて云うならば民族的、地理的宿命の生活者としての自覚に立っていることを、はっきり知ることが出来るのだ。
 日支事変の真相が、さまざまの形で彼我の間に論議されたけれど、それが感情的な窮屈なボーズの中で云云されねばならなかつた不幸な五年間は、大東亜戰爭の勃発によつて、きれいに払拭せられた。この戦争こそ、観察者と、生活者の闘いであるということが、今こそ世界歷史の前に明快に断言出來ると思う。
 正しく云へば大東亜戦争と共に日支事変は終息を告げたのであつて、も早重慶政府などというものは中国の民族志向の必然から遊離せる単なる米英の一支隊に過ぎぬのだ。そしてわれわれ日本人は、生活者としての自信と、大らかなる愛情の中に、中国を識らねばならぬと思ふのである。
 扱、われわれ日本人より一歩を先んじて中国にカメラを持込んだ欧米のカメラマンの仕事といふものも、勿論この観察者としての域を出でるものではなかった。彼ら観察者、つまり旅行者の碧眼は、支那の中に功利の在処を掴え、或は又異民族的興趣の主観の中に、彼らの未開国なるものをデフォルメした。ここにもわれわれが、民族的本能の憤りなくして見ることの出来ない映像の集積がある。
 私はカメラマンとしての「生活者」でありたいと希い、私の闘いを激しく自覚した。
 昭和十六年八月、現地で徴用満期を迎えた私は、当時租界の中にあって執拗な抗日宣伝を続ける数種の新聞を相手に、和平論陣を展開していた大陸新報社発行の華字紙「新申報」に入社した。
 抗日中国。
 和平運動の展開。
 国民政府の発展強化。
 大東亜戦争の勃発。
 国民政府の参戦。
 転変する中華民国の心臓部に身を置いて、私は歷史の断面を、歷史の具体を、生活者としてのカメラの眼に灼きつけることに責任と抱負を感じた。
 私のカメラの眼は当然、まっとうな中国の顏に注がれた。そして今、まっとうな中国の顏とい
うのは、百年、千年を一刻に圧縮した、この激烈な歴史の中の表情そのものにこそ求められるべきだと思った。
 そして、このまつとうな中国の顏を知ることこそ、中国と共に生き、中国と共に新しい東亜の運命を負うわれわれ日本人の、民族的、歷史的良心であると思った。
 いきおい私の仕事は観念的な所謂「支那風俗」を排し、新しい表情の中に集中せられた。
 この写真集は、かゝる私の民族的志向と、歴史への參加という、不遜な抱負に、むしろ圧倒せられた仕事の一部の報告である。
 しかもこの仕事が、万一中国の歴史の中に一つの位置を見出すことが出來たとするならば、それは幸にも私が中国の友として、今日に生きる日本人の一人であったことの功とせねばならないであらう。

(覚書の二)

 或る時期に私の書いた詩 これは「現代詩精神」第十七輯に揭載した。

無題 例えば反英美協会のQ君に

僕の顏が中国人に似ているという
君の顏が日本人にそっくりだという
そんなことでお互が特別面白そうにわらいあう
けれどもこのわらい
天の涯に蹠を返している黃色い流れにくるとパッタリ止まった。
雜草の中からおしよせてくる腐つたアニマルキユレス、セメントや鉄筋の匂いを臭ぐとパッタリ止
 まった
僕の歩き方と君の歩き方と
君の筆の持ち方と僕の筆の持ち方と
そっくり同じだということに
僕らわらい
僕らのわらい、からッ風のあとあじのように消える時に
首を捩いだ獅子林砲台の台座を拔いて何首鳥(ツルドクダミ)は白い花を点け
ひろい野と
ひろい空を
屈折させてしまつた新建築
そこで忽ち君と僕の頭の中を木ツ端微塵に碎くのは--
しかも尚
あとからあとからふきぬけてくるこれのわらい
しらばっくれた こんなかなしいわらいのてっぺんで
しかし
僕の鼓膜にひびかうのは
古里のせせらぎに
ギイギイガツタンコを奏でている うわがけ水車の おさなうただ。
これは君の国でやっばり同じうたをうたっている。
それから顏輝の「蝦仙人図」のあの下唇の突ッばりよう
僕は日本の檜の皮の香りの中であのおやじには幾度も出喰している。
こんなはなしこそ
電信柱の芯鳴りのように 君と僕の背骨をうづかせる。
それらこそは
たえることなき われわれのうただ。
僕の顏が中国人に似ているといふ
君の顏が日本人にそっくりだといふ
はげしい時代の かなしいわらいを
僕ら
やさしい やさしい うたにしたいと思う。

(覚書の三)

私は現在、ライカDⅢ(エルマ-F3.5)。スーパーシックス(テッサーF2.8)。ソルントンレフレツクス名刺(テツサー53.5)。アンゴー手札(ダゴールF6.8)等新舊のカメラを使用している。
 この写真集の仕事は約八割をライカにより、他は夫々のカメラによつてなされたものである。
 フイルムは、ライカにはアグファーSS、他のカメラにはさくらパンFを、現像液は主としてD-76を使用した。

(覚書の四)

 この写真集の製作に当って、懶惰な私を絶えず激励、鞭撻してくれた先輩友人諸氏の温情を忘れることが出來ません。
 特に貧しい私の爲にライカ一台を与えられた長崎の詩人、澁江周堂氏、いつも店先の籐椅子に、私を坐らせて「上海漫語」の実物を聞かせて下さった内山完造氏、私の仕事場での良き理解者であつた大陸新報、新申報の日華同人諸氏、わけて日高清磨瑳氏、仮谷太郞氏にこの機会に感謝の意を捧げたい。
 又本書中、著者がその撮影の機会を得ることの出來なかつた清郷工作の写真四枚を快く貸与して下さつた上海陸軍部報道部写真班の堀野正雄氏、中山信氏、佐野正義氏、出版に当って御骨折下さつたアルス編集部の中村正爾氏、村山吉郞氏に厚く御礼申上げます。

昭和十八年(民國三十二年)秋、上海にて

2024年07月25日池田克己:その他(散文)

陳公博:池田克己「新生中国の顔・序(訳文)」より

かつて我國にあつた歐米のカメラマンといふものは、多く前以て或種の色眼鏡を用意し、或種の不純な意圖のもとに題材を求める傾向にあつた。
(略)
日本の諸君は正確なる觀點に立脚して、題材の核心を摑へ、この正しい藝術的製作過程を通じて、新中國の動態を逐一表現してきたのである。そしてこの事が、中國に對する理解と認識に、どれほど多く寄與するものがあつたかは贅言を要せざる所である。
池田克己氏はすなはち東邦の名カメラマンにして、第七藝術に對する深く豐かなる教養を有し、その詩人的慧眼は足跡の至るところにひらめき、多角多面の新生中國の姿態は、氏を得てよく黑白の畫面に表現されつくされたのである。今玆に、軍事、経済、文化、經濟等の各部門に亘り傑作八十幀を選出して一册となし題して「新生中國の顏」といふ。
池田氏のこの勞作が、諸種の文字による報道より、はるかに普遍的にして、有力なる效果をあげるであらうことは論を俟たざる所である。
(略)

民國三十二年十月 陳公博

2024年07月25日池田克己:エピソード, 陳公博

澁江周堂:池田克己詩集「原始」跋より

(略)
著者の人間としての立派さ、藝術家としての巨大さについて、今更一言の說明をも致したくない。著者が身を挺して行ふ眞實は、一點の嘘僞の影も無い。虛僞こそは著者の蛇蝎の如く嫌ふものである。今の世に、凡そ得難い、巨人の如く毅然として立つ池田克巳。南京にあつて今や著者の精神は赫々と燃えさかつてゐるであらう。
(略)

昭和十四年十月十日 澁江周堂

2024年07月25日池田克己:エピソード, 澁江周堂

近代美術館について

丹塗の鳥居、丹塗の太鼓橋、丹塗の流権現造社殿。舞い上り舞い下りる数百羽の神鳩。今も毎年一回の例祭の翌日、古式も厳しく、中世武士の姿をした馬上の射手が、的に向って矢を放つ流鏑馬神事の行われる神域。老杉、老松に混じって槇、白樫、楢、欅、樟樹、柏槇、公孫樹、柳、椎、楓などの繁る、森厳な鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の杜。この閑雅な日本の古典的風景の中に、突如として出現した鮮明直截なシルエットを持つ白亜のマッス。殆ど黒の張り出したアスベストウッドとアルミの目地金具で仕上げられた、濡れたような、光を含む白い長方形の壁面構成。これはパリーの、ル・コルビジェ建築研究所出身の坂倉準三氏によって設計され、一九五一年一〇月竣工した、」神奈川県立近代美術館である。
 この古風な環境を選んで建てられるこの建築が、中途半端や妥協を排した、思い切って斬新な建築様式をもって設計せられたことは、一見、甚だしい冒険事に思われた。
 しかし源平池の水藻の絨毯の上に半身を乗り出して、空間に鈍い傾斜を与えるような、或いは新型の航空機を思わせるような姿勢で建ち上ったこの建築は、八幡宮の古典と、不思議な融合を示して人々を頷かせた。その極端な比例と対照によってかもし出された雰囲気は、かって多く経験したことのない魅力を持って、われわれの心を捕えるものであった。それはもはや強い調和の現出であった。思うに、この強い調和こそ、人間の創造的な文化と歴史の、流れと動きがただよわすところの、おのずからなる摂理に外ならぬであろう。
 史都鎌倉が、この一つの近代建築の出現によって、そのような人間意志の動きの中に、生きた文化の立体面を顕現したことは、甚だ興味深いところといわなければならない。
 鶴ヶ岡八幡宮の境内は、まことに脈動的な美しさ、明るさを持つ一角となった。
 われわれは、日本の歴史的な観光地などで、そこに建てられた停車場や公共的建造物が、例えばコンクリートの柱を丹塗にしたりして、つまり現在的な資材で、形式だけを古典様式とすることによって、その土地の雰囲気と調和を計ったとしているようなものに、実にしばしば出くわすのであるが、あれくらいの愚劣、俗悪な趣好はないと思う。それは古典への冒涜であると同時に、現代文化の冒涜でもある。
 近代美術館が、鎌倉的古典の雰囲気に引ずられることなく、今日の文化の自信を、はばからずに、その雰囲気の中に呈出したことによって、却って、強い調和を現出せしめたことは、教訓的な事実とさえいわねばならぬと思う。
 設計者、坂倉準三氏の労を多としたい。しかしそれにもまして、われわれは、鎌倉鶴ヶ岡の宮居の杜に、このような新建築を造った神奈川県当局の英断を賞讃したい。
 神奈川県当局の賞讃すべき英断をいうならば、更に重要なものとして、そもそもこの美術館設立という、そのこと自体を上げねばならぬことは勿論である。
 日本の職業的政治屋共が、敗戦以来口を開けば「文化国家建設」をいいながら、国立と名のつく、何らの文化施設も実行し得ない状態であり、現に東京に国立近代美術館設立の噂が拡まってからも、もうかなりの歳月が経過しているにもかかわらず、一向にその実現性の具体的な声を聞かない。いうやもはやその噂さえいつかうやむやの内に人々の記憶から消失しようとしているようである時、あまり富裕とも思われない神奈川県が、いち早くこの近代美術館を実現したことは、日本的政治の通有性から隔絶した、見事な勇気の結果といわねばならない。
 そしてこの勇気と、あの古典的な宮居の杜に、ためらうことなく新様式の建築を採用したこととは、決して別個のものではない。
 私は神奈川県の先鞭を追って、日本の各地方に、このような近代美術館が続々建設されることを、どれほどにか深く熱望したい。国立をまつことなく、地方政治が、自主の勇気をもって、それを成しとげてほしいと思う。
 それによって、文化の中央集権的な変更がおのずから是正されることはいうまでもないが、それは同時に、日本国家政治の文化処理というものへの何より強力な批判の一つを呈出することになると思う。
断片的付記
※ この美術館は、観覧者に、殆ど披露を与えない程度の規模のものである。つまりその陳列壁面が、一般人の美術享受の生理的限界ともいうべきものと過不足のない広さであるわけだが、このことは、一般人と美術を親近させる上で効果をもたらすものとなるであろう。われわれは上野の美術館や博物館などで、しばしばその壁面の美術過剰にうんざりし、そんなものとはかかわりない外気の中に飛び出したい衝動に襲われることが、しばしばあった。しかしここではそのような経験を味う心配はないであろう。
 そして、そのような適当な陳列壁面にかかわらず、更に観覧者への憩いへの配慮として、テラスやバルコニーや中庭の空間処理はまことに親切を極めたものといわねばならない。
※ この美術館で僅かに気にかかった天は、南面テラスの壁面の色である。あのイエローオーカーは、清潔な白亜のマッスと甚だしく不調和であり、アクセントの効果を上げているとも思われぬものである。折角あの色の再考をわずらわしたいと思う。それから工事の進捗に急を要したためか、或いは材料処理の不適切の故か、新しい内部壁面の数ヶ所に既に大きな亀裂を生じているのは、いたましい。

(『みづゑ』一九五二年五五八号)

2024年07月24日池田克己:その他(散文)

同人誌「豚」後記より

豚ニ飢餓ヲ与ヘヨ!

豚ハ貪婪ナ胃袋ニ飢餓ヲツメコンデ、

ヤガテ猪ニ化スルデアラウ。

2024年07月24日池田克己:その他(散文)

方三尺の空(遺稿)

毎日病床から見る

方三尺の空の明るさ

その高い窓には

樹木ものぞかないし

鳥影のうつる時もない

しかし

その窓の明るさは

適確に深まる秋を告げて

あますところがない

病む人はその率直な自然の啓示に驚きながら

まるで魔術師のように

方三尺の明るい天のカンバスに

毎日新しい空想の絵を描く

不思議にもそれらの絵は

かつて健康だった頃の

如何に重要な経験の記憶よりも

更に強く

更に鮮かに

病む人の胸に

重なりたたまれて行くのであった

(昭和二七年十月二十四日東大清水外科病室にて口述)

上林猷夫「池田克己のこと」(「詩学」第八巻第四号)より

2024年07月24日池田克己:その他(詩)

高村光太郎「上海雑草原・序文」より

(前略)美醜などという簡単なものは、此処の泥と汗と臭気と広袤と、そして又巨大な時の歩みと一切をのむ未知の力との中にすべて埋没する。こういう天地をこれほど五官にひびいて肉体化した詩をあまり知らない(後略)

2024年07月24日池田克己:高村光太郎

たとえば
虎の眼
馬の鬣
蠍の螫
獣(けだもの)は酒も食べず
暫時も怒りなきを得ない

真空のガラス管の中でべろべろ下嘗めずっている
ふん怒にまみれた性欲

2024年07月23日池田克己:幻象詩集

花 花

灰燼の立ち罩める

天体の大ガラスの中に

花花は燃え

花花は沈む

2024年07月23日池田克己:幻象詩集

東京:第二番

眞昼間
野犬の群れに喰い殺された子供があった
疾走中の満員電車の扉が開いて数名の乗客の生命が神田川の濁流に
 呑まれた

荒天の初夏
肌に汗重く
焦土の麦の穂は黒くしなびれていた

何かのクラビヤ版で見た
コロラド峡谷や
スコットランドの蛇行河の風景を
記憶の中に蘇らせようと努めるが
胸に悲哀ばかりが激烈だった

2024年07月23日池田克己:東京

東京:第一番

泥の上にバラックが建ったとて何になろう
焦土に花が咲いたとて何になろう
不潔な唇に紅を点じたとて何になろう
腰弱い建築や
栄養のない花弁や
垢をつくろう小娘の
いそいそしさよ 他愛なさよ 虫のよさよ

頭を転じて
只見る満目瀟瀟の瓦礫の原
全き破滅は絶景なる哉

破滅そのものの中に
永遠は不逞不逞しく横たわる
破滅そのものの中に
美は頑固に居据る

2024年07月23日池田克己:東京

村落より:第四番

『一緒に撒いたのに
畦一つで
芽の色が あないちごうとる
何せ肥は正直正銘や』

麦畠で
桶屋のお母ンがいう

2024年07月23日池田克己:村落より

村落より:第三番

杉木立の間から
時折
びっくりするような鋭い星の眼が光る
あの星を
数えて走った村童の日よ

国破れ
生きてふたたび踏む
古里の道

2024年07月23日池田克己:村落より

村落より:第二番

炬燵の埋火をかきおこす
書院の窓をあけると
白雪のかんむりの下に南天の実
額を覆う吉野群山
その彼方の鉛の天

北満の忠治はまだ還らない
ビルマの弥市はまだ還らない
ルソンの銀作はまだ還らない

2024年07月23日池田克己:村落より

村落より:第一番

道の面ての杉木立

掌のうえの杉木立

お前の頬の杉木立

霜夜は

満月

2024年07月23日池田克己:村落より

上海雑草原:第三番 吳淞クリーク

澄んだ青空と
縮の寄った雨雲が
重なり
サッと流れる陽あし趁って
又 翳る
夥しい帆柱が
天を剪る鋸のように
破れ帆を立てた
≪澁紙いろになり 紅いろになり≫
その隙間もる逆光のキラキラ波
畚を担ぐ苦力の掛声の中から
女や子供が埃のように顔を出す
一草もない
泥の谷間
生あたたかい穢れた奴が
無数に息を噴き 毛を生やし
ああして一つところで湧いている
≪この寂寞に晒されて ねむったく私はいる≫
ああ
どの戎克も
舳に見事な丹青を彫り
この時
まばゆい反射の泥水から
私たちの神話の友が
ひょっこり現れて
『アレヲ肯定スルンダ』と
その色 形
指した

2024年07月21日池田克己:上海雑草原

上海雑草原:第二番

風はヒタと方向を失った
ねじまげる首の届くかぎり
曳光は鱗雲に映え
何と宇宙は美しいことだ
昏れ残る野の半面に
丈の伸び切った草が海草のようにメラメラ漂うている
突然
濁った合唱が湧き立ち
迷彩の屋根が脹らむかと見ると
たちまち撃墜のように
太陽が沈む
地上は茫々たる雑草の影絵
ひょっとすると
その向こうにグランドキャニオンのような断層があって
そこから世界は途切れているんじゃないか
合唱は
懶く
乱れ
草蜉蝣がとんでいる

2024年07月21日池田克己:上海雑草原

闇の眼球

この闇の空漠と
この闇の沈沈と

靴は千切れた鋲鉄の音を
洋服は腋下と股下の繊維の摺れ音を
風呂敷包みはアルミの弁当箱に転がる梅干種の音を
けれど人の気もなしの僕の歩行

僕はいるのかいないのか
満ちなどあるのかないんだか
そして何だかギョロッと剥いた眼球のようなものが
この烏羽玉の闇より濃い黒で
僕を誘うているような

とめどもない一めんの平板と
足のやり場もない屹立する何かと
そのざわめきと
その沈黙と

僕の顔は黄色で
僕の洋服は茶褐色で
僕の風呂敷は浅黄色で
ネクタイだって紅い縞で
あゝ僕はそれを何度も胸に繰返し
折角白昼の記憶に縋ろうとするんだが
頭痛のように犇く黒い密度の
すっぽり足元を浮き上がらせる深い静寂の
重たい
無限の


たしかに両側は生垣で
その生垣の間の細い道で
たった今まで
手探らなくても順染んでしまった家路は筈で
急にグランドキャニオンが眼下に直下したような
ハリー彗星が股座を流れるような

しかしやっぱり
僕の身体は動いている
そんな心の傾倒に暇借なく
地を這うような
空間を泳ぐような
そしてその僕の前を揺曳する
何だかギョロッと剥いた眼球のようなもの

この闇の空漠と
この闇の沈沈と

あゝあの眼球は
切り裂いた僕の胃袋のようであり
敗戦直前の日に通過した満鮮国境図們駅の 冷たいベンチから眺
 めた黒い山磈のようであり
どっかで鳴っている大砲の音のようであり

2024年07月21日池田克己:二つの眼

失われた顔

水たまりの中に
顔がある
何物も思わないぼくの顔

木の葉が沈んで朽ちている水底
顔に翳るうっすら泥を引いた葉脈

屈曲する
戦車
飛行機
プランクトン
幽かに揺れる水たまりの木
もみくしゃになるセロファンのような顔

葉脈の襞に貼り付けられた顔
何物も思わないぼくの顔

顔の皺に這いずる汚れた太陽
・・・
忽然! 砂塵の中に舞い上がる木の葉

2024年07月21日池田克己:二つの眼

そのとき天空の一隅に黒い太陽が懸かっていた

 前身に縫取のある穈爛した裸の人間が 口から火を吐く白い蛇
が 蝙蝠傘のような水掻をつけた二足獣が 親密そうに顔を寄せ
夜っぴて僕に何事かを語っていた 累卵状の層をなした灰濁色の
もやもやの中で

 梧桐の葉に霧の流れる朝明け 彼等はみんな何処かへ去ってし
まった 二つの掌を重ねた僕の胸の内部に 為体の知れぬ厭迫感
を残して

 彼等は一体何を語って行ったのだろう 彼等の姿は一々鮮明に
僕の眼底に灼き付いているのに 夜っぴて杜絶えることなく僕に
向って語りつづけられたその言葉は 今は一片の記憶も止めてい
ない しかも僕の胸を覆う瘡蓋のようなものは

 その日駅の高架に立ってふと僕は 後から後から階段を登って
くる群衆の姿に眼を注いだ おゝ何とそれは悉く 全身に縫取の
ある穈爛した裸の人間であり 口から火を吐く白い蛇であり 蝙
蝠傘のような水掻をつけた二足獣ではないか

 僕は驚駭の思いをひそめ 今一度彼等が夜っぴて僕に語りつづ
けた言葉を聴こうと耳澄ませた

 しかしその彼等はもはや夜のようには語ろうとはせず 白々し
い他人の顔で黙々と何か忙しげに後から後から僕のかたわらをす
りぬけて行くだけだった

 そのとき僕は 彼等がさも大切そうに夫々一枚の号外を所持し
ていることに気付いた その号外には どれにも特大号の活字で
「戦争!」と書かれてあった

2024年07月21日池田克己:二つの眼

死の時代

銀粉を撒き散らしたような
日差しに
べっとり肌を這う濡羽色の
夜の密度に
無数の
死のきそいが

   これが羨門
   ここが玄室
   この窪みが納骨孔
   ピントグラスに投影する
   かげろうのような寶篋印塔 五輪塔
   貝殻のような古人の骨

熊笹の根や
湿地の羊歯や
落磐や
蛇や
苔や
そして
背を撓め
脇腹を歪め
谷や
山や
切通しや
凝灰岩の風化の泥にまぶれ
蝋髪袈裟の立像レリーフにフラッシュを浴びせ
古墳窟に執心する
僕の頃日

  その僕の腹皮をよじる
  蜈蚣のような開腹縫合の痕
  その周辺を
  姦しく通過した
  六ヵ月前の
  死の足音

それよりも
僕の記憶に
生々しい
北鮮のあのあたり
二重ガラスの列車の窓から
凍った海岸線を切る
白鳥の群や
突然山影に出現した
巨大な工場や
その映像につづく
死のきそい

相模湾を真紅に染める落暉
掌に鳴る
古人の骨
その遠近の視覚の襞に揺曳くする
死の


そして
古墳窟の
黴臭に満ちた静謐に佇む
僕の耳に
キャタピラや
プロペラや
電波や
犇き
轟き
無数の
死のきそいが

2024年07月21日池田克己:二つの眼

島崎曙海「思い出すこと」より2

去年十一月私は池田の稲村ケ崎の邸宅を見舞った。玄関の左横の部屋で上むけにねていた。ヒゲはのびていたが、口は元気だった。奥さんは「あんまりうれしすぎてしゃべるといけませんよ」なんか注意していた。私は病気のことには全然触れなかった。上林たちから禁ぜられたいたから。池田は「つまらない選挙などするな。馬鹿げているぞ」と私をしかった。私はかしこまって聞いた。立派な邸宅をほめると、「奈良の家はこの二倍位ある」といい、「こんな邸宅を手にいれるって、お前は腕達者だな」と私は関心すると、兄弟姉妹が皆いいんだよ。みんなの援助でやったことだ。俺の兄弟はいいからなあ」と話した。一抱えもある松林を私はみいっていた。「田村が上京してくるから明日もう一回訪問したい」というと「あしたはこらえてくれ。女房が写真機をうりに東京に行くんだ。小説家だって病気をしたら生活にこまるのに、詩人は余計こまるよ。実に・・」と。長居は池田に毒と思ったので「佐川の家にいってくる。またくるぞ」というと、「佐川によろしくいってくれ。佐川の女房は気のつく細君で、偉い人だよ」とほめた。鵜沼の佐川の家に往くと、細君は留守だった。十年ぶりに佐川をみた。思ったより元気だった。私はとてもうれしかったし、佐川もそうなのか二人は色々と話し合った。池田の話になると、「もう半年もつかな」と佐川は私にはなした。「よくないよ。半年かなあ」とつぶやくように再び云った。

出典:「日本未来派」日本未来派 57号(1953年) 池田克己追悼特集号

2024年07月19日池田克己:島崎曙海

内山完造「池田克己君を悼む」より

【略】

 君が上海時代を思い出すよ。はち切れる様な若々しい大きな身体で、写真機を両手で撫でながら、口角泡を飛ばして、侃々の論諤々の義を吐いて倦むことなかりし漫談の集いは何日までもいつまでも忘れられない楽しいものであった。
 私は何日も思うた。池田君という人間はあれだけ議論好きであって、而も詩人である。何んと考えても矛盾だ。常に不思議に思うておった。「豚」の同人としての池田君。「日本未来派」の同人としての池田君。私は君の詩を見て時には人が違った様に感じたことさえもあった。立派な詩集を出したことがあった。アルスから上海写真集を出したこともあった。私も寄贈の光栄に浴した。

【略】

然し池田君。「そけどなア!うっちゃまさあん。あんたのファンのうちの女房がナアー、一ぺんうちへ来て欲しいというてます。晩飯を食いにナアー」と、君が宝山路に家を持った時の招待の一言は其大阪なまりが忘れられない記念である。
 。

(一九五三・四・二三 於門司)

出典:「日本未来派」日本未来派 57号(1953年) 池田克己追悼特集号

2024年07月19日池田克己:エピソード, 内山完造

島崎曙海「思い出すこと」より

私が大連にいた、くわしくいうとビルマから帰って、ほっとしていた一九四五年(昭和二十年)四月。池田が上海から陸行、釜山経由日本へ妻子を避難させる途中、大連にやって来た。

【略】

池田は例の口八丁、手八丁で、いっそうした友人をつくったのか、大連に十年いる私より手際よくのし歩いていた。

【略】

 話はその前になるが、私が「地貌」を出したとき、池田から装幀をさんざんくさされた。私も時分の装幀にそう自信もなかったし、また印刷屋の不手際で自分の思うとおりにはならかなったので苦笑した。その後、満州女性社か「十億一体」が出るとき、上海の池田に装幀を依頼した。おくってきた装幀は、箱の分まで揃っていて、大砲の砲身が大きくかかれ、それを花火がうづめていた。本は、大仏の頬をかき、飛行機がトンボのように数限りなく飛んでいるのだった。私は自分の金は一銭も出さないので、気が引けて、この豪華版を払う押しきらなかった。実にちゃちなものにして、実は表紙の字は私が下手糞にかき、扉に、池田描く大仏に飛行機の乱舞を入れた。出来上がりを池田におくると、またまた池田に叱られた。私の言訳をきいた、「気の小さい奴は駄目だ。押しの一手で出版屋をおしまくればいい」と教えられた。私はいまでもあの装幀をつかい、箱の絵も、と思うと、なんとかして、池田のいうとおり刊行しておけばよかったと考える。渋江周堂の「鳩と潮流」の箱絵に似たものが出来上がっていたと、かえすがえすも残念である。こうかいてくると、池田の助言から、私に対してくれた暖い友情を裏切ってばかりいたようで自分がいやになる。故意にそうしたわけではなかったが。

【略】

出典:「日本未来派」日本未来派 57号(1953年) 池田克己追悼特集号

2024年07月19日池田克己:エピソード

高島高「池田克己の思い出」

今より十四五年前のことであるが、僕の下宿の近くに花田清輝が引っ越して来て、僕らのグループの(当時そのように云っていたのだが)の仲間入りをした。即ち、馬込から大井地方に住む、極く気の合った人たち数人の集りで、遠征隊として山之口貘も加わっていたわけだが、非常に家族的といってよい程の友情の厚い集りであった。花田清輝が、岡本潤、中野秀人という人々とはかって「文化組織」という雑誌をはじめた。僕も、なじみのひいきからか詩を書くように言われ、そこに詩を書いたが、そこへ、池田克己が、どういう関係からか、同じく詩を書いていた。詩は主として、上海などのことが出てくる中国を素材としたもので、後年程ではないが、比較的特異な傾向のものが多かったように思う。それだけに池田克己の名は印象的であった。その後、赤塚書房から「詩原」が出て、そこへは毎月詩を書いていたが、不思議に池田克己も殆ど毎号詩を書いていた。この時代に池田克己という名をはっきり覚えてしまった。僕は「豚」時代の池田克己をあまりくわしく知らなかったから、この大陸を素材に毎号書いている池田克己という人間に少なからず興味をもった。その頃の池田克己の詩は、後年ほど構成的でなく、むしろリリカルな作風だったように思った。なんとなく小野十三郎という名が思い出された。この雑誌に秋山清もよく書いていたが、何か作風に一種の類似点があったように思ったのは、僕の思いちがいであろうか。その後、僕は南方に出征して、しばらく内地にいなかったものだから、この間の克己の名を見出したのは、終戦後一年あまりの収容所生活を終え、二十二年に内地に復員してからで、やはり「日本未来派」の編集者としてであったように思う。「池田克己も元気なんだな」とその時は、何かたのもしい気持がした。僕の前からの知人では、扇谷義男、長島三芳、島崎曙海が元気で活躍していたのもうれしかった。僕は復員間もなく、文学国土(後の北方)を編集しはじめたので「日本未来派」と毎月雑誌の交換を行った。そして池田克己の詩に対する並々ならぬ精力的な意欲を知ったのであった。彼もたしか、僕の「文学国土」には非常な好意をよせてくれたので、そこではじめて、音信のやりとりをした。たとえば、僕が「文学国土」に発表した「空天の話」をいう詩について、とても好意ある批評の手紙をくれたりした。僕も、その頃の「日本未来派」に所載されている彼の詩について感銘して、何かと音信をした。それは、かつての「文化組織」「詩原」時代の作風とは非常にちがっていて、深く沈滞した重みのあるものであった。この人の詩に対する深化と熱意には感動した。そのうちに「北方」とあらためた「文学国土」も、印刷の都合で出なくなったし、𦾔「麺麹」の血縁として、「時間」が、北川冬彦主宰によってはじめられたので、僕は直ちに代表同人として加わった。「麺麹」の再興を誰れよりも望んでいた自分であったから。このことを、ある友人が山中鹿之助のごとしだねとひやかしたことさえあった。そのうちに、ネオ・リアリズム理論を裏ずける作品が思うように描けなくて苦しんでいる時に、池田克己から「日本未来派」に詩を発表するように云って来た。このことが、遂に永年の紙上における知己が本当の仲間になる機会を作った。即ち、同人参加である。その時の池田克己の手紙はあたたかく友情にみちたものであった。「未来派はセクト的な一切のものを排していますから、あなたは、時間の同人であるとともに、未来派の同人となって下さい」というのであった。
 しかし、その後、北川冬彦主宰の諒解を得て、一時「時間」をはなれ、「未来派」のみの同人となった。𦾔「麺麹」時代の事情をよく知ってくれた池田克己は、この時にも実にあたたかい心をくばってくれた。その後、全く骨肉のように親しくなった。「北陸の旅をして、是非あなたの家に生きたいとか、上京したら、直ちに歓迎会をやるとか」それはもう二十年来の知己のようになった。
 そして、池田克己の人なつかしさというものは、彼のよい性格の中でも、又特別なものだと思った。そして、こんなよい人が、胃の切断手術を行ったということを悲しんだ。
 いつも音信の終りには、手術後の健康を注意して下さいという言葉がはずせなかった。彼の死を知ったのは、この北特有な立山颪に雪が舞い散っている夕べであった。「池田克己!」僕は心の中でそう呼びながら、詩人の生涯というものを考えて、一晩中眠らなかった。そして、われわれが、この人生において、共にいみじくも詩の道を選んだということを。(一九五三年・三月二十三日・北方詩社にて)

出典:「日本未来派」日本未来派 57号(1953年) 池田克己追悼特集号

2024年07月18日池田克己:エピソード, 高島高

百田宗治「池田克己君」より

 

【前略】

 私が当時上海の大陸新報にいた池田克己君に会ったのは昭和十九年の秋、南京でのことで、それから半月あまりを、一しょに蘇州、上海などと遊びくらした。その時池田君が大和の吉野の人であることをはじめて聞き知った

【中略】

とにかく近代文化的には不毛の地と思われていたこの地方ー別して大和の山地からいつのまにかこういう尖鋭なわかい詩人たちが出てくるようになったことは、とくに大阪生まれの私などにとってはひとつの驚異でもあり、また思いがけぬことであった。池田君がその詩や小説のほかにカメラのあたらしい技術感覚の所有者であったり、またジャーナリストとしてもすぐれた才覚を備えていたことなどはなお一そうの「驚き」である。こういう人が、まだその若さで胃の宿痾で倒れるというようなことは全く信じられないことである。
 池田君があの短軀で、南支でゆききしている間もすっかり同行の高見君に馴れ親しんで、いきいきと少年のようにふるまっていた風姿が想い出されてくる。「日本未来派」は同君の不敵な野望が遺した唯一のモニュメントであろう。この人を喪った同人諸君、とくに古川武雄君の力落しにふかい同情を送る。

出典:「日本未来派」日本未来派 57号(1953年) 池田克己追悼特集号

2024年07月18日池田克己:エピソード, 百田宗治

高村光太郎「弔電」

ワガ ヤマニライカヲモチテイチハヤクタヅ ネコシカレトカタリシコトゴ ト」

我が山にライカを持ちていち早く 訪ね来し彼と語ることごと

2024年07月17日池田克己:エピソード, 高村光太郎

森田素夫「池田君を悼む」より

終戦後、東西出版社という雑誌者に池田君と僕は一緒に勤めた。僕の方が少し早かったが、そこで、池田君は仕事好きの持ち前を発揮して、僕などの口を入れる隙もなかった。写真を主とした雑誌なので、彼の技術蔽いに役だったので、お陰で僕は大層、楽をさせて貰った。毎日二人でパイプタバコを呑吐して、毒舌を交わしていたが、結構面白く、暇をみつけては都内から鎌倉の古本やまで足をのばした。池田君の口角泡をとばす元気さをちょっと揶ゆするつもりで、君は詩人というよりも詩壇ジャーナリストだね、といった事があるが、その時、池田君は怒髪、天を衝くといった風に、僕を睨みつけて、何かいった。池田君の正直さ、自負、そういうものは、決して悪くはないが、日常座談の時、時々二人は突っかかった。が奇妙に、あと残りがなく明日はさっぱりとしていた。
【後略】

出典:「日本未来派」日本未来派 57号(1953年) 池田克己追悼特集号

2024年07月17日池田克己:エピソード, 森田素夫

植村諦「少年池田克己」より

池田勝己との交友は思えば三十年になる。しかし何時彼のことを考えても僕のイメージには真っ先に少年の彼の姿が浮んで来る。それは幾つになっても彼の中に少年のナイーブさと衒気が残っているためでもあるがまた僕の方には自分の子に自分の子は幾つになっても少年としか思えないあの親の動物的習性が残っているためかも知れない。僕が彼と毎日を過すようになったのは僕が学校を出て、彼の生地、大和吉野龍門村の小学校教員をしていた時で、僕が十九歳、彼が今の彼の長男原と同年の十歳頃であったかと思う。それで今長男の原を見るとよくもあんなに顔形、挙措動作まで己に似せて作ったものだと不思議に思う位だ。しかしその気質は原のように都会的な弱さとスマートさはなく、野生にみちてもっと能動的だった。 その彼を小学校三年から六年まで教えた当時の僕は学校では最も若い教師の一人で夢と理想に燃えていた時代だから田舎の封建的な慣習に反抗し、官僚の厳重な教育監督を無視して随分自由勝手な教育をやった。正規な師範教育を受けなかった僕の教育の指針になったものはルソーの「エミール」であった。大正末年の吉野の山奥でこんな自由教育をやる僕はしょっちゅう校長や学校からにらまれてばかりいたが、子供たちからは非常によろこばれ親しまれた。僕は彼らを連れて山野を跋歩して自然を観察させたり、動植物の採集や写生やったりした。そんな時池田はとても熱心でドンランでさえあった。その頃から彼は絵がうまかったが、何枚も何枚も画いては僕のところへ持ってきた。また放課後や日曜などには僕の自宅まで友人とともにやってきて、アンデルセンや小川未明、芥川などの童話をせがんだりしていた。こういうことが後年彼が絵を書いたり、詩を作ったりする最初の素地になったのかも知れない。
 

【後略】

(一九五三.三.一八)
出典:「日本未来派」日本未来派 57号(1953年) 池田克己追悼特集号

2024年07月17日池田克己:エピソード, 植村諦

法隆寺土塀

帽子にたまつた雨水をはらい
靴底につもつた泥土を雜草になすり
頬につたう雫をぬぐい
龍田川からの一本道
土砂降りしぶく一本道
とうとう私はかえつてきた
 松波木のむこうの綠靑いろに苔むした民家の屋根屋根 そのむ
  こうの田圃の中を烟(*けむ)つて消える一本道
 カタバミの小さな托葉と ヨナメの鋸葉 カヤツリ スズメノヒ
  エや 綠の縫取した白帶の一本道
この道
十年ぶりの
私の中華民國からつづいている道
  引揚船江ノ島丸の船底の 筵の上に腹這つて スクリユと機鑵
   のガンガンにやられた頭が 九日七夜うろついていた——
  Hの「支那彫刻史」と「三民主義と孫文」の稿成つた北平内一
   區喜鵲胡同や
  テリヤの亞里と鵞鳥と家鴨の戯れる 八十六本のタチアオイと
   クチナシの匂いの中で 十八もポケットのついたダブダブの
   爉衣で 包子を作つてくれたKの南京瑯玡路や 
  民國三十三年民國三十五年生まれの  私の原や道の オ
   シメのひるがえつていた上海閘北寶昌道や
あれらの路地につづいている道
あれらの路地での夢幻夢想の
歲歲十年を一瞬にちぢめて                
私の胸は動悸搏ち
私の頬は火照り
かなしみなく いかりなく
ためらいなく 痴愚なく 忘却なく
私はかえつてきた
日本が敗れたこと あれから四日目の華北の野で友が死んだこと
 私の左腕貫通銃創
もうみんな帽子の雨水 靴の泥
この道は垣垣と
松並木のむこうから 田圃のむこうから 雜草
 のむこうから
東支那海のむこうから
つづき
とうとう私はかえつてきた
土塀の外の蓑笠の田植
土塀の内の佛や伽藍
土塀の外の敗亡の今日の時
土塀の内の飛鳥や白鳳や天平の時
そして
私の中華民國十年の
さまざまな擧句の果ての
ただ一散にここに運んだ びしよ濡れの私の肉體を 支えて受ける
土塀の胸
この胸
かつて六朝を入れ
この胸 東トルキスタンに 健駄羅(ガンダラ)に 印度に 薩珊(ササン)に 東羅に
 サラセンに
この胸さらに 希臘に アッシリヤに 埃及に
通い
この胸また
物部蘇我の 血しぶき浴び
あれらの渾沌未分の煙霧をととのえ
あれらの歴史や地理の激湍を塗りこめ  
今は静かに土蜘蛛の這う
荒壁の土塀

私はかえつてきた
黄沙にまみれた服も脱がず
瓦礫と銹鐵の街に眼くれず
十年ぶりの中華民國からの一本道
とうとう私はかえつてきた  

  私の背の 私のあれからの時間の——
  猫背になつて 黄浦灘(パンド)の屋上から 鋸形に黄昏の空を截るジャ 
   ンクの帆布の列と 無數の人影を 眼しばたいて眺めていた
   私
  狷介孤高の痩詩人路易士と「馬上侯」の壁間を埋める老酒の甕
   の列を 卽ち一行一行の詩と數えていた私
  單發の機上から 流れ行く家屋と人間 家畜と樹木 あの浙江
   平原の大洪水をレンズに納めていた私
  蟬時雨のような彈丸音の中で 皮膚病の苦力の尻をめくつて
   膏藥をすりこんでいた私
あの時私は
何にかなしみ 何にいかり 何におどろきを發していたのであつた
 か
歲歲十年
その茫茫の時間の極み
天津貨物廠跡の日僑収容所から引きずり出された貨物列車の 昏い
澱みの一隅で
堤防から投げつける小孩達の石礫の音を黙って聽いていた私には
もはや 
かなしみなく いかりなく おどろきなく
帽子にたまつた雨水をはらい
靴底につもった泥土を雜草になすり
頬につたう雫をぬぐい
龍田川から一本道
土砂降りしぶく一本道
とうとう私はかえつてきた
私の中華民國の十年の
雜多矢鱈の
息せき切った一散の
昏昏迷迷の
肉體の前に立つ
荒壁
法隆寺土塀

2024年07月13日池田克己:法隆寺土塀

ボギー車屬(絶筆)

海浜を走る
この一九一〇年代製ボギー車には
半身を夕陽の朱に染めた人々がならび
片瀬から乗車した二人の尼僧の
ペンギンのような黒白服の背を見せて
運転台の脇の窓から外を眺めている構図が
シャバンヌか青木繁の画因を想わせる
窓に磯の香
干魚の匂い
カンナやダリヤの強い色彩が通過すると
暫時は白い洗濯物ばかり飜って目に迫った
僕は明日 開腹手術のため入院する予定だけれど
そのことは古い物語めいてくるばかりで
この旧式のボギー車のもたらす
事象の鮮やかさに比すべくもない
  (さっき石上の日輪草の咲いている家に見舞った
   染井六造のカリエスの身体が
   轣轢と共にやってくるがーーその頑丈な上半身と細く萎えた
   菱形の脚部のかなしみ
   すると又
  「君は病詩人らしく熱帯魚を養殖するといい」と
   僕の衣食住のために
   その実行のプランを樹ててくれる心温い土井直の広い額の顔が
   キラキラ光る波頭と一緒にやってくるがーー
日坂からアメリカの水兵と粗末な服を着たパンパンだ
いずれはカリフォルニヤ在のポテトー作りジョン君ジョージ君
千葉在のお玉さん お梅さん
あまり気分的な腕の組み方とは申せないが
その生い立ちの素朴さのせいか
時節柄か
傍若無人ということもない
僕だって思い出す
上海虹口武昌路のアンペラベッドの上で
愛呀!と
清朝夫人のような吐息を漏らした
揚州太太を
ああしかし
こんなことを想い出しては
あのペンギン服の尼僧に照れよう
染井六造や土井直の親愛の顔にだってーー
僕は
この一九一〇年代製ボギー車の窓枠を流れる紺碧の海に向って
せめてメノンとソクラテスの対話でも誦すべきだろう
或いは
この海岸線に
週一度位の割合で起る
物凄い炸裂音を考えるべきだろう
  (その炸裂音が何の音であるか
   このあたりの住人は誰も知らない)

(昭和27年9月3日作「詩學」昭和28年1月号)

2024年07月13日池田克己:その他(詩)

豚の邊(ほとり)

遙かな
前方
そのピカピカ光る山脈の起伏も
湧きあがる乱雲の彩りも
日と共に肥りゆく首を上げては も早望み得べくもなかった
それは昔
芋の子のように乳房にぶら下がって仰ぎ見た景色だが 今はもう 誰彼の頭にもすれすれに薄れてしまった

《突如!首ッ玉にからみついて投縄に顛倒した仲間が 潰れた鼻からヒリヒリ絶叫をあげて血の滲んだあの眼で この世の最後に見たものは ひょっとするとこの薄れがちな記憶の光彩であったかも知れない いやそれだけは信じたい》

日とともに
この肉体はこの意志におかまいなく 顎を前につんのめらせ 残飯の饐えた臭いに近づけしめた
自由な手足があれば照る陽に癒えて
せめて淡紅の皮膚を輝かせたいものを
汚れは募るばかりだ
こんな汚れた皮膚の下で酸酵しているものに自分自身 なんと慚愧に耐えぬものがあることか

しかし
見ろ
むこうに
われらと共に汚れ果てて
なおもその肉体におかまいなく
威張り散らしている嫌な野郎が一人いるのだ
片手に棒を下げて
平気の平左で

2024年07月08日池田克己:お伽の季節