高島高「池田克己の思い出」

今より十四五年前のことであるが、僕の下宿の近くに花田清輝が引っ越して来て、僕らのグループの(当時そのように云っていたのだが)の仲間入りをした。即ち、馬込から大井地方に住む、極く気の合った人たち数人の集りで、遠征隊として山之口貘も加わっていたわけだが、非常に家族的といってよい程の友情の厚い集りであった。花田清輝が、岡本潤、中野秀人という人々とはかって「文化組織」という雑誌をはじめた。僕も、なじみのひいきからか詩を書くように言われ、そこに詩を書いたが、そこへ、池田克己が、どういう関係からか、同じく詩を書いていた。詩は主として、上海などのことが出てくる中国を素材としたもので、後年程ではないが、比較的特異な傾向のものが多かったように思う。それだけに池田克己の名は印象的であった。その後、赤塚書房から「詩原」が出て、そこへは毎月詩を書いていたが、不思議に池田克己も殆ど毎号詩を書いていた。この時代に池田克己という名をはっきり覚えてしまった。僕は「豚」時代の池田克己をあまりくわしく知らなかったから、この大陸を素材に毎号書いている池田克己という人間に少なからず興味をもった。その頃の池田克己の詩は、後年ほど構成的でなく、むしろリリカルな作風だったように思った。なんとなく小野十三郎という名が思い出された。この雑誌に秋山清もよく書いていたが、何か作風に一種の類似点があったように思ったのは、僕の思いちがいであろうか。その後、僕は南方に出征して、しばらく内地にいなかったものだから、この間の克己の名を見出したのは、終戦後一年あまりの収容所生活を終え、二十二年に内地に復員してからで、やはり「日本未来派」の編集者としてであったように思う。「池田克己も元気なんだな」とその時は、何かたのもしい気持がした。僕の前からの知人では、扇谷義男、長島三芳、島崎曙海が元気で活躍していたのもうれしかった。僕は復員間もなく、文学国土(後の北方)を編集しはじめたので「日本未来派」と毎月雑誌の交換を行った。そして池田克己の詩に対する並々ならぬ精力的な意欲を知ったのであった。彼もたしか、僕の「文学国土」には非常な好意をよせてくれたので、そこではじめて、音信のやりとりをした。たとえば、僕が「文学国土」に発表した「空天の話」をいう詩について、とても好意ある批評の手紙をくれたりした。僕も、その頃の「日本未来派」に所載されている彼の詩について感銘して、何かと音信をした。それは、かつての「文化組織」「詩原」時代の作風とは非常にちがっていて、深く沈滞した重みのあるものであった。この人の詩に対する深化と熱意には感動した。そのうちに「北方」とあらためた「文学国土」も、印刷の都合で出なくなったし、𦾔「麺麹」の血縁として、「時間」が、北川冬彦主宰によってはじめられたので、僕は直ちに代表同人として加わった。「麺麹」の再興を誰れよりも望んでいた自分であったから。このことを、ある友人が山中鹿之助のごとしだねとひやかしたことさえあった。そのうちに、ネオ・リアリズム理論を裏ずける作品が思うように描けなくて苦しんでいる時に、池田克己から「日本未来派」に詩を発表するように云って来た。このことが、遂に永年の紙上における知己が本当の仲間になる機会を作った。即ち、同人参加である。その時の池田克己の手紙はあたたかく友情にみちたものであった。「未来派はセクト的な一切のものを排していますから、あなたは、時間の同人であるとともに、未来派の同人となって下さい」というのであった。
 しかし、その後、北川冬彦主宰の諒解を得て、一時「時間」をはなれ、「未来派」のみの同人となった。𦾔「麺麹」時代の事情をよく知ってくれた池田克己は、この時にも実にあたたかい心をくばってくれた。その後、全く骨肉のように親しくなった。「北陸の旅をして、是非あなたの家に生きたいとか、上京したら、直ちに歓迎会をやるとか」それはもう二十年来の知己のようになった。
 そして、池田克己の人なつかしさというものは、彼のよい性格の中でも、又特別なものだと思った。そして、こんなよい人が、胃の切断手術を行ったということを悲しんだ。
 いつも音信の終りには、手術後の健康を注意して下さいという言葉がはずせなかった。彼の死を知ったのは、この北特有な立山颪に雪が舞い散っている夕べであった。「池田克己!」僕は心の中でそう呼びながら、詩人の生涯というものを考えて、一晩中眠らなかった。そして、われわれが、この人生において、共にいみじくも詩の道を選んだということを。(一九五三年・三月二十三日・北方詩社にて)

出典:「日本未来派」日本未来派 57号(1953年) 池田克己追悼特集号

2024年07月18日|池田克己:エピソード, 高島高