島崎曙海「思い出すこと」より
私が大連にいた、くわしくいうとビルマから帰って、ほっとしていた一九四五年(昭和二十年)四月。池田が上海から陸行、釜山経由日本へ妻子を避難させる途中、大連にやって来た。
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池田は例の口八丁、手八丁で、いっそうした友人をつくったのか、大連に十年いる私より手際よくのし歩いていた。
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話はその前になるが、私が「地貌」を出したとき、池田から装幀をさんざんくさされた。私も時分の装幀にそう自信もなかったし、また印刷屋の不手際で自分の思うとおりにはならかなったので苦笑した。その後、満州女性社か「十億一体」が出るとき、上海の池田に装幀を依頼した。おくってきた装幀は、箱の分まで揃っていて、大砲の砲身が大きくかかれ、それを花火がうづめていた。本は、大仏の頬をかき、飛行機がトンボのように数限りなく飛んでいるのだった。私は自分の金は一銭も出さないので、気が引けて、この豪華版を払う押しきらなかった。実にちゃちなものにして、実は表紙の字は私が下手糞にかき、扉に、池田描く大仏に飛行機の乱舞を入れた。出来上がりを池田におくると、またまた池田に叱られた。私の言訳をきいた、「気の小さい奴は駄目だ。押しの一手で出版屋をおしまくればいい」と教えられた。私はいまでもあの装幀をつかい、箱の絵も、と思うと、なんとかして、池田のいうとおり刊行しておけばよかったと考える。渋江周堂の「鳩と潮流」の箱絵に似たものが出来上がっていたと、かえすがえすも残念である。こうかいてくると、池田の助言から、私に対してくれた暖い友情を裏切ってばかりいたようで自分がいやになる。故意にそうしたわけではなかったが。
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出典:「日本未来派」日本未来派 57号(1953年) 池田克己追悼特集号