近代美術館について
丹塗の鳥居、丹塗の太鼓橋、丹塗の流権現造社殿。舞い上り舞い下りる数百羽の神鳩。今も毎年一回の例祭の翌日、古式も厳しく、中世武士の姿をした馬上の射手が、的に向って矢を放つ流鏑馬神事の行われる神域。老杉、老松に混じって槇、白樫、楢、欅、樟樹、柏槇、公孫樹、柳、椎、楓などの繁る、森厳な鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の杜。この閑雅な日本の古典的風景の中に、突如として出現した鮮明直截なシルエットを持つ白亜のマッス。殆ど黒の張り出したアスベストウッドとアルミの目地金具で仕上げられた、濡れたような、光を含む白い長方形の壁面構成。これはパリーの、ル・コルビジェ建築研究所出身の坂倉準三氏によって設計され、一九五一年一〇月竣工した、」神奈川県立近代美術館である。
この古風な環境を選んで建てられるこの建築が、中途半端や妥協を排した、思い切って斬新な建築様式をもって設計せられたことは、一見、甚だしい冒険事に思われた。
しかし源平池の水藻の絨毯の上に半身を乗り出して、空間に鈍い傾斜を与えるような、或いは新型の航空機を思わせるような姿勢で建ち上ったこの建築は、八幡宮の古典と、不思議な融合を示して人々を頷かせた。その極端な比例と対照によってかもし出された雰囲気は、かって多く経験したことのない魅力を持って、われわれの心を捕えるものであった。それはもはや強い調和の現出であった。思うに、この強い調和こそ、人間の創造的な文化と歴史の、流れと動きがただよわすところの、おのずからなる摂理に外ならぬであろう。
史都鎌倉が、この一つの近代建築の出現によって、そのような人間意志の動きの中に、生きた文化の立体面を顕現したことは、甚だ興味深いところといわなければならない。
鶴ヶ岡八幡宮の境内は、まことに脈動的な美しさ、明るさを持つ一角となった。
われわれは、日本の歴史的な観光地などで、そこに建てられた停車場や公共的建造物が、例えばコンクリートの柱を丹塗にしたりして、つまり現在的な資材で、形式だけを古典様式とすることによって、その土地の雰囲気と調和を計ったとしているようなものに、実にしばしば出くわすのであるが、あれくらいの愚劣、俗悪な趣好はないと思う。それは古典への冒涜であると同時に、現代文化の冒涜でもある。
近代美術館が、鎌倉的古典の雰囲気に引ずられることなく、今日の文化の自信を、はばからずに、その雰囲気の中に呈出したことによって、却って、強い調和を現出せしめたことは、教訓的な事実とさえいわねばならぬと思う。
設計者、坂倉準三氏の労を多としたい。しかしそれにもまして、われわれは、鎌倉鶴ヶ岡の宮居の杜に、このような新建築を造った神奈川県当局の英断を賞讃したい。
神奈川県当局の賞讃すべき英断をいうならば、更に重要なものとして、そもそもこの美術館設立という、そのこと自体を上げねばならぬことは勿論である。
日本の職業的政治屋共が、敗戦以来口を開けば「文化国家建設」をいいながら、国立と名のつく、何らの文化施設も実行し得ない状態であり、現に東京に国立近代美術館設立の噂が拡まってからも、もうかなりの歳月が経過しているにもかかわらず、一向にその実現性の具体的な声を聞かない。いうやもはやその噂さえいつかうやむやの内に人々の記憶から消失しようとしているようである時、あまり富裕とも思われない神奈川県が、いち早くこの近代美術館を実現したことは、日本的政治の通有性から隔絶した、見事な勇気の結果といわねばならない。
そしてこの勇気と、あの古典的な宮居の杜に、ためらうことなく新様式の建築を採用したこととは、決して別個のものではない。
私は神奈川県の先鞭を追って、日本の各地方に、このような近代美術館が続々建設されることを、どれほどにか深く熱望したい。国立をまつことなく、地方政治が、自主の勇気をもって、それを成しとげてほしいと思う。
それによって、文化の中央集権的な変更がおのずから是正されることはいうまでもないが、それは同時に、日本国家政治の文化処理というものへの何より強力な批判の一つを呈出することになると思う。
断片的付記
※ この美術館は、観覧者に、殆ど披露を与えない程度の規模のものである。つまりその陳列壁面が、一般人の美術享受の生理的限界ともいうべきものと過不足のない広さであるわけだが、このことは、一般人と美術を親近させる上で効果をもたらすものとなるであろう。われわれは上野の美術館や博物館などで、しばしばその壁面の美術過剰にうんざりし、そんなものとはかかわりない外気の中に飛び出したい衝動に襲われることが、しばしばあった。しかしここではそのような経験を味う心配はないであろう。
そして、そのような適当な陳列壁面にかかわらず、更に観覧者への憩いへの配慮として、テラスやバルコニーや中庭の空間処理はまことに親切を極めたものといわねばならない。
※ この美術館で僅かに気にかかった天は、南面テラスの壁面の色である。あのイエローオーカーは、清潔な白亜のマッスと甚だしく不調和であり、アクセントの効果を上げているとも思われぬものである。折角あの色の再考をわずらわしたいと思う。それから工事の進捗に急を要したためか、或いは材料処理の不適切の故か、新しい内部壁面の数ヶ所に既に大きな亀裂を生じているのは、いたましい。
(『みづゑ』一九五二年五五八号)