歴史の中の表情-「新生中国の顔」制作に就いて
(覚書の一)
いま、私がこの一文を草しているのは、上海開北の原ツばの中に新しく建てられた赤い煉瓦の家の内である。この支那式の防暑、防寒建の煉瓦の家には、チャンと日本の青畳が敷かれ、襖と障子が部屋を区切っている。
そして、支那の気象と、日本の生理が一つに溶け合ってもたらしたこのような樣式の家の窓からは、かつて蔣介石が新上海建設を企図した広袤たる雜草の原が展け、日本の子供と、中国の子供が、かろうじて服裝だけで区別をつけねばならぬ同じい樣子で一緒になって遊んでいる。
閘北--
中支の戰鬪の中で、最も悽愴、苛烈を極めたというこの地帯には、つい此間まで商務印書館の戦跡が、まるで今もガラガラと音立てているような慘憺たる形相で、蓬髮のように鉄筋を空に逆立て、階段や壁面を宙に浮かせていたのであったが、今それらは、すっかり清掃され、その跡には新しい日本国民学校の校舎が、窓々に可憐で元氣な「サイタサイタサクラガサイタ」の声を溢れさせている。
こうした新しい風景の中に生きている日本人としての、自分の時代的位置が、私のカメラをどのように方向づけてきたか。
私は事変二年目の昭和十四年七月(民国二十八年)日本で初めて実施された国民徴用令による所謂白紙召集によって、支那派遣軍総司令部に配属を命ぜられ、生れて初めて、しかもかつてない動乱の只中にある中国の土を踏んだのであった。
遅鈍な私といえども「中国を識る」ことに対する意欲の身内に滾るのを覚えぬわけには行かなかつた。しかもこの身辺周囲に満ち溢れている動乱中国の大衆の顏の中で、私も又凡庸に、欧米人の書き綴つた夥多な中国研究の書に眼を晒して行ったのであつた。しかしながら、それらの活字の物語る、さまざまの実相、推理といふものは、その驚くべき豊富さに不拘(かかわらず)、私の中国人に対する日毎の親近感の深まりと、次第に反比例して、私の血の反発を呼び起して行つたのは何としたことであらう。しかもこの事が、私にどのようないわれを教えたかということは、私の貧しい成長の中で、実に重大な事柄であつた。
私は、彼らの知識なるものが中国という実体に対する観察者としての立場からもたらされたものであつたということに気付かねばならなかったのだ。
一国の民族への接触に、彼らは愛情の代りに、観察の表現である科学なるものをもってのぞんだ。そこには当然、東洋民族に対する欧米民族の優位性が、彼らの自覚として前提づけられていた。この民族的自惚れは又、当然東洋民族を彼らの被搾取となす功利の尾を、露呈せずにはおかなかった。
この功利の触手としての観察の眼は、彼らの科学への過信に裏打ちされて、民族の心理を、習慣を、風俗を、文化を、政治を、経済を、一個の物質と化せしめ、分析し、結論し、これらの厖大な業績を整えて行ったのであった。
私の血の反発なるものは、かゝる彼らの根本姿勢に対する民族本能の憤りそのものであったのだ。もしとたとい数に於て少く、視野に於て狭くとも、われわれ日本人が中国に対して、例へば、内藤湖南の「支那論」を持ち、宮崎滔天の「三十三年の夢」を持つことに、よろこびと希望を覚えぬわけには行かなかった。
観察者としてのそれが、どのやうに精緻、該博を極めたところのものであろうとも、それは遂に功利を暴露し、いやしくも民族の血の温くもりに触れるものであり得ないに反し、われわれの先輩の態度は中国に対する血肉的な止み難い愛情の必然の中に、言葉を代えて云うならば民族的、地理的宿命の生活者としての自覚に立っていることを、はっきり知ることが出来るのだ。
日支事変の真相が、さまざまの形で彼我の間に論議されたけれど、それが感情的な窮屈なボーズの中で云云されねばならなかつた不幸な五年間は、大東亜戰爭の勃発によつて、きれいに払拭せられた。この戦争こそ、観察者と、生活者の闘いであるということが、今こそ世界歷史の前に明快に断言出來ると思う。
正しく云へば大東亜戦争と共に日支事変は終息を告げたのであつて、も早重慶政府などというものは中国の民族志向の必然から遊離せる単なる米英の一支隊に過ぎぬのだ。そしてわれわれ日本人は、生活者としての自信と、大らかなる愛情の中に、中国を識らねばならぬと思ふのである。
扱、われわれ日本人より一歩を先んじて中国にカメラを持込んだ欧米のカメラマンの仕事といふものも、勿論この観察者としての域を出でるものではなかった。彼ら観察者、つまり旅行者の碧眼は、支那の中に功利の在処を掴え、或は又異民族的興趣の主観の中に、彼らの未開国なるものをデフォルメした。ここにもわれわれが、民族的本能の憤りなくして見ることの出来ない映像の集積がある。
私はカメラマンとしての「生活者」でありたいと希い、私の闘いを激しく自覚した。
昭和十六年八月、現地で徴用満期を迎えた私は、当時租界の中にあって執拗な抗日宣伝を続ける数種の新聞を相手に、和平論陣を展開していた大陸新報社発行の華字紙「新申報」に入社した。
抗日中国。
和平運動の展開。
国民政府の発展強化。
大東亜戦争の勃発。
国民政府の参戦。
転変する中華民国の心臓部に身を置いて、私は歷史の断面を、歷史の具体を、生活者としてのカメラの眼に灼きつけることに責任と抱負を感じた。
私のカメラの眼は当然、まっとうな中国の顏に注がれた。そして今、まっとうな中国の顏とい
うのは、百年、千年を一刻に圧縮した、この激烈な歴史の中の表情そのものにこそ求められるべきだと思った。
そして、このまつとうな中国の顏を知ることこそ、中国と共に生き、中国と共に新しい東亜の運命を負うわれわれ日本人の、民族的、歷史的良心であると思った。
いきおい私の仕事は観念的な所謂「支那風俗」を排し、新しい表情の中に集中せられた。
この写真集は、かゝる私の民族的志向と、歴史への參加という、不遜な抱負に、むしろ圧倒せられた仕事の一部の報告である。
しかもこの仕事が、万一中国の歴史の中に一つの位置を見出すことが出來たとするならば、それは幸にも私が中国の友として、今日に生きる日本人の一人であったことの功とせねばならないであらう。
(覚書の二)
或る時期に私の書いた詩 これは「現代詩精神」第十七輯に揭載した。
無題 例えば反英美協会のQ君に
僕の顏が中国人に似ているという
君の顏が日本人にそっくりだという
そんなことでお互が特別面白そうにわらいあう
けれどもこのわらい
天の涯に蹠を返している黃色い流れにくるとパッタリ止まった。
雜草の中からおしよせてくる腐つたアニマルキユレス、セメントや鉄筋の匂いを臭ぐとパッタリ止
まった
僕の歩き方と君の歩き方と
君の筆の持ち方と僕の筆の持ち方と
そっくり同じだということに
僕らわらい
僕らのわらい、からッ風のあとあじのように消える時に
首を捩いだ獅子林砲台の台座を拔いて何首鳥(ツルドクダミ)は白い花を点け
ひろい野と
ひろい空を
屈折させてしまつた新建築
そこで忽ち君と僕の頭の中を木ツ端微塵に碎くのは--
しかも尚
あとからあとからふきぬけてくるこれのわらい
しらばっくれた こんなかなしいわらいのてっぺんで
しかし
僕の鼓膜にひびかうのは
古里のせせらぎに
ギイギイガツタンコを奏でている うわがけ水車の おさなうただ。
これは君の国でやっばり同じうたをうたっている。
それから顏輝の「蝦仙人図」のあの下唇の突ッばりよう
僕は日本の檜の皮の香りの中であのおやじには幾度も出喰している。
こんなはなしこそ
電信柱の芯鳴りのように 君と僕の背骨をうづかせる。
それらこそは
たえることなき われわれのうただ。
僕の顏が中国人に似ているといふ
君の顏が日本人にそっくりだといふ
はげしい時代の かなしいわらいを
僕ら
やさしい やさしい うたにしたいと思う。
(覚書の三)
私は現在、ライカDⅢ(エルマ-F3.5)。スーパーシックス(テッサーF2.8)。ソルントンレフレツクス名刺(テツサー53.5)。アンゴー手札(ダゴールF6.8)等新舊のカメラを使用している。
この写真集の仕事は約八割をライカにより、他は夫々のカメラによつてなされたものである。
フイルムは、ライカにはアグファーSS、他のカメラにはさくらパンFを、現像液は主としてD-76を使用した。
(覚書の四)
この写真集の製作に当って、懶惰な私を絶えず激励、鞭撻してくれた先輩友人諸氏の温情を忘れることが出來ません。
特に貧しい私の爲にライカ一台を与えられた長崎の詩人、澁江周堂氏、いつも店先の籐椅子に、私を坐らせて「上海漫語」の実物を聞かせて下さった内山完造氏、私の仕事場での良き理解者であつた大陸新報、新申報の日華同人諸氏、わけて日高清磨瑳氏、仮谷太郞氏にこの機会に感謝の意を捧げたい。
又本書中、著者がその撮影の機会を得ることの出來なかつた清郷工作の写真四枚を快く貸与して下さつた上海陸軍部報道部写真班の堀野正雄氏、中山信氏、佐野正義氏、出版に当って御骨折下さつたアルス編集部の中村正爾氏、村山吉郞氏に厚く御礼申上げます。
昭和十八年(民國三十二年)秋、上海にて