我が詩歴-最初の敗亡

 牛込薬王子、元の士官学校裏の、大道に面した四間取りの家で、僕は只一人で自炊生活をしていた。この家は、同じ屋敷つづきになっている大岡という子爵家の持ち家であった。
 この大岡子爵というのは、大岡越前守の末孫であるということであったが、実に愉快な人物で、ほん の何でもない行きががりから、僕に無類の好意をよせ、この家を家賃無しで、借してくれたのであった 。
 僕はこの家で、都市建築設計と、油絵と、写真をやっていた。写真というのはカタログ用の機械写真を作ることであったが、僕はいろいろな工場へ行ってさまざまの機械を撮影した。建築設計も油絵も金にはならなかったが、この写真の仕事は熱心にやれば相当な収入になった。しかし僕はこれで最低の生活費だけを稼ぐと、あとの仕事は絶対に断ることにして、ピカソばりの油絵を描き、建築設計に壮大な夢を築いて、一人で満足していた。
 この家に、たいてい日に一回モデルがやってきた。首の太い鼻の低い、しかし素晴らしい肉体美の、若い女であった。彼女は僕の汗臭い万年床の上にころがって、さまざまのポーズをとった。彼女は又家からポータブルを持ってきて僕にダンスを教えようとしたり、米を磨き、味噌汁やテンプラを作って僕の自炊を助けたり、なかなかの好意を示してくれたが、当時、甚だしくうぶな青年であった僕は、その好意を、決して好意以上のものとして受取らなかった。
 その内に彼女は、時々僕の製作をのぞきにくるコールマン髭の子爵氏と、腕を組んで街に出かけて行くようになった。そのような後で僕はよく、裏庭からのりこんでくる子爵夫人のヒステリにとっちめられて閉口したものであった。
 僕のこの家には、ずいぶんいろいろな人間が現れたが妙に詩人が多かった。なかでも、岡本潤、野長瀬正夫、植村諦、局清といった頃の秋山清、朝鮮の民謡詩人金素雲、それから女流の加藤壽美子、山本華子などがよくやってきた。僕は又この人達によって深尾須磨子、小野十三郎、草野心平、萩原恭次郎、高野壽之介時代の菊池久利などという詩人を知ることが出来た。
 しかし僕は別段詩を書こうとするようなこともなく、やはり主として油絵と建築設計をやって暮した。
 ところでそのように僕の交わっていた詩人は主としてアナキストであったにかかわらず、僕一人はコンミニズムを信奉していた。
 ある冬の日の夜明け前の時刻であった。僕は突然この家にちん入した人相のよくない四人の男共によってがんじがらめに縛られて表に投げ出された。外は一面の雪であった。この乱暴な男共は、僕を引き立てて、神楽坂署のブタ箱の中にほうり込んだ。
 僕は連日潜行コンミニストとして峻厳な取調べを受けた。僕が人から暴力を加えられたのはこれが初めてのことであった。
 ある日、取調べ中、僕の前に数葉の写真がつきつけられた。それは僕がひそかに清純な思慕をよせていた一人の女性の写真であった。「この女はお前の情婦だろう。こいつも引っぱってきて。ぶち込んでやる」
 特高刑事のその一言は僕を深い絶望におとし入れた。その女性は、母と姉の三人の、ひっそりとした女暮しの中で、美しい三十一字を綴っている竹柏園の歌人であった。
 僕はけだもののごとき特高刑事から、あくまでこの女性を守ろうとし、その住所をかくし通した。そのため僕の顔はすっかり歪まされてしまった。
 そして、やがて--
 僕は、それらの詩人の友とも、美しい女性とも別れて、大和吉野山中の、生れ故郷の家に帰って行った。
 そこで僕は無性に詩を書き出した。それが詩であるかないか、そのような内省も批判もなく、ただこみ上げるような敗北の思いにかられて、かつて東京で幾人かのともによって示された詩という形式に。自分のすべてをたたきつけた。 
 僕の処女詩集「芥は風に吹かれている」はこの時書いた約半歳の間の詩集である。
 昭和九年、僕の二十三歳であった。

(「詩学」1949年5月号より)

2024年07月31日|池田克己:その他(散文)