佐川英三ノート(佐川英三陣中詩集「戦場歌」跋)
その頃、佐川英三と僕は、詩と生活を真向こうに、ふりかぶった、たたずまいのなかにいた。僕らは大和吉野川のせせらぎをこえた対岸に、お互の独居を持ち、もっぱら、その居において飯食む業を得つつ、詩雑誌《豚》に通じる限りなき貪婪な欲望をもって、毎夜、お互の室を見舞いあった。
すなわち僕らは、詩と副食物の栄養価値にひたすら傾倒した。
満ち足りぬ生活を思うまえに、僕らは仕事を捨てて、二子縄のごとき一匹の細鰻を狙って、ざんぶと碧澤に日暮らした夏の日。
しかし二十歳を半ば出ぬ彼が、その驚くべき太い指の関節を抂げて、老幼男女の灸壷を、さぐり、艾を剪って火を点じ、又、大小の針をたわめて、その肉体のカン所に刺し透す悠然さは、僕をしても、甚だまごつかせるものがあった。
どれほどの彼の患者たち、大方、肩のこらぬ町裏の民衆諸君に打ち混じって、僕ら深く彼を信じ、彼を愛したか。
ああ、その頃の町裏連の皮膚のいろ、そしてマヒマヒツブロのごとき僕らの叙情詩の玉虫色は、いま北支の戦野を馳駆けする彼の頭に、どのように掠めることか。
昭和十二年の夏、佐川は一枚の赤紙を持って、僕の室にやってきた。僕はその時、彼はその時、彼がどんなに甘さうに愛用のマドロスをふかせたかを忘れはしない。彼と僕は眼細めて笑い合っただけだ。
彼の台所から、僕の台所に、いづれも彼が半ば食べすごした漬物桶、味噌樽、ザラメ壷、それに割木柴までが運び込まれた。
大行李、佐川二等兵はかくて、職場に馬の轡を取った。
彼の垢みどろ。彼はハッとした思いで、生誕以後の潔癖を、惜しげ無く捨てた。《ためにクリークの濁水は清められたと、僕は夢見た。》それは内地にある僕の無頼をあざ笑う、逞しいものであった。おそらく、彼の想像に絶して、大陸の地の果ては、極まりなかったことであろう。今や「詩」どころではない。「文学」くそ喰え、だ。も早、わが肉体よ、果て知らず行け、わが精神よ、目まいしろ。
しかし、偉そうなことを云ったのは、彼の何者であったのか。彼は内地から送られた木偶人形を、脂汗で真黒にし乍ら、肌近く愛撫していると、そッと僕にささやいているのではないか。泥土から拾い上げた、ライラックの花弁に、身も世もあらず歓喜したのは、一体誰か。
連帯行動の戦塵の底をついて、今、戦場高く打ち上げられた花火には、佐川英三の磨ぎすまされた、眼ん玉が包まれていた。無頼のなれの果てに、僕は涙流した。彼は町裏の患者の皮膚いろを思うだろう。
明日の決河を控えた、アンペラの、ふしどで、いくらもいくらも詩の書ける今日の、佐川英三。行きつくところまで行け。僕は貴様の太い指を、さかねぢするまで握りたいだけだ。
長谷川巳之吉氏に、佐川英三が、眼ん玉の位置を、誰よりもまつさきに、掴んで貰へたことは、この厖大な歴史にのたうつ、僕ら青年の任務の、どれほどの倖であるか。
今頃、彼は、汚れた肌を、初夏の太陽に輝かせ、シャツでも洗っていよう。
昭和十四年五月 吉野川畔のあの机の上で