中学生のための現代詩鑑賞:池田克己

※「中学生のための現代詩鑑賞」は、詩人が自作の詩を解説する企画です。現代詩人会の編集で寶文館より昭和26年に出版され、現代詩人会の詩人達が執筆をつとめました。 

新しい季節

 月はのぼった
 河鹿の声は葦の茂みの方だ
 葦の茂みには
 枯鞘と新芽が混っている
 その根元には水溜りがある
 よく注意してみると
 水溜りの水は少しづつ動いている
 もうじきここに
 二番子のカエルダマが孵るだろう
 葦の茂み分けて
 私たちは水溜りをみつけて歩いた
 肌がぢっとり汗ばんでこゝろよかった
 その時たしかに
 新芽がふっと匂った
 私たちは
 自分の周囲にあるものは
 みんな正確な自然であることを知った
 ああ
 私たちの胸はときめく

「新しい季節」を書いてから、もう十数年になる。これは当時、詩人である野長瀬正夫氏の編集によって出されていた「少女画報」という雑誌のもとめによって書いたもので、作者はまず最初に、その雑誌の読者である十六、七の少女を意識しなければならなかった。(この詩はのちに 昭和十五年-出版された私の第二番目の詩集「原始」に収録したのであるが、その時は 作品の終わりに「少女たちに--」という言葉を添えた。)
 ところで私たちが、通常詩を書く場合に、その詩の読者というものを意識することは極めて稀である。 これは現代詩というものが、他の文学とちがって、その詩を書く人間自らの、最も純粋な心のうったえに導かれた、自然な、止めることのできない、自発的な態度の結果するものであって、その詩が、他人にうったえるというようなことはほとんど考えの外にあるからである。
 しかしそのような説明は、少し専門的になるし、この本の出版の趣旨に沿うものでもないので、これ以上立ち入ることは控えるけれど、私は自分の詩の説明に先立って、例えばくぜんとにしろ、一応現代詩というものの生み出される特性の一端を、諸君に知っていてもらいたいし、私のこの「新しい季節」が、そうしたことの例外的な動機によって作られた詩であることを明かにしておかねばならぬと思ったのである。

さて「新しい季節」を書くに際して、私の念願としたのは、これまで一般の人たちが詩というものは、何か人間の日常的な生活や、現実的な自然から遊離した、特殊な感情や、甘美な抒情によって構築された、よそよそしい仮構の美であるとしているような常識に対して、こうした機会に、若い読者に、現代の詩が求め立至っている正しい姿の一つを示したいということであった。
 この詩は読まれるとおり、実にぶっきらぼうな、あるいはゴツゴツとした言葉と表現とで終始している。一般の人達の常識の中にある、所謂、詩的な 耳ざわりの良い雅語や、美辞麗句といったものは、どの一行の中にも 見出し得ない。そして、これも今日の詩の、正しい表現の姿であることを知って貰いたい。
 すなわちこれは、今日の人間の思想や感情を、最も忠実に表現するのは、たとえそれが、いかに粗雑なものであろうとも、今日の人間の生活によって生まれ、日常の使用語となっている今日の言葉であって、この言葉の機能の真実性を無視して、今日の詩は成立しないという、私達の詩観を示すところのものである。

 この詩のモチーフ(主題)や表現内容については、ほとんど説明の要はないであろう。
 晩夏から初夏にかけて自然の、ありのままの姿に対する正確な観察が、この詩の根本を支えているのであって、その観察によって掴えた自然というものから、成長期にある若い人達の、みづみづしい生命力の共感を導こうとしたのである。
 この詩は、「私たち」という主語によって、作者は、成長期にある若い人たちを代弁しているのである。いや実は、作者は、代弁を越えて、その若い人達と同じ年頃のものになり切ろうと努力しているのである。そうすることによってこの詩を書く動機の如何に関わらず、詩の真実感を充実せしめたかったからである。つまりこの一文の最初の方でいった「自らの最も純粋な心のうったえ」の状態に少しでも近づこうとしたわけである。
 この本の読者である若い諸君が、こうした作者の意図を理解し、素直な自らの心の声を導き出す習慣ができれば、おそらく諸君には、こういう詩は、もっと立派な純粋なものとして生み出されるであろうと思う。
 この詩には又、意味の理解に困難な箇所は一つもないと思われる。極めて平易なものである。しかしながら、そうした平易な言葉と表現の羅列にかかわらず、これが散文というものとの違いは、現実(自然)の選択に用いられた作者の眼にあるのだ。
  ありのままの自然を、写真のレンズが掴えるように、一切合財ただ細密に描写しただけでは詩にはならない。ここではそのモチーフである「新しい季節」が、この自然の万象の中の、どれとどれとにもっとも端的に、あるいは印象的に現れているか、その鮮明で簡潔な把握が大切である。
 河鹿の鳴いている葦の茂み、その葦の中には枯葦と新芽が混ざっていることや、その根元にある水溜りの水が、気温のぬくもりと一緒に少しづつ動いていること、あるいは、ふっと匂う新芽、といった掴え方に注意してほしい。
そうした冷静な、そして鋭い自然の観察によって導かれて、初めて「私たちは自分の周囲にあるものは みんな正確な自然であることを知った」という説明的な言葉も、詩的感動と結びついたものとなり、 そして又この抑制によって、「ああ 私たちの胸はときめく」という主観も、真実という重量を帯びた言葉となるわけである。

2024年08月10日|池田克己:その他(散文)