島崎曙海「思い出すこと」より2

去年十一月私は池田の稲村ケ崎の邸宅を見舞った。玄関の左横の部屋で上むけにねていた。ヒゲはのびていたが、口は元気だった。奥さんは「あんまりうれしすぎてしゃべるといけませんよ」なんか注意していた。私は病気のことには全然触れなかった。上林たちから禁ぜられたいたから。池田は「つまらない選挙などするな。馬鹿げているぞ」と私をしかった。私はかしこまって聞いた。立派な邸宅をほめると、「奈良の家はこの二倍位ある」といい、「こんな邸宅を手にいれるって、お前は腕達者だな」と私は関心すると、兄弟姉妹が皆いいんだよ。みんなの援助でやったことだ。俺の兄弟はいいからなあ」と話した。一抱えもある松林を私はみいっていた。「田村が上京してくるから明日もう一回訪問したい」というと「あしたはこらえてくれ。女房が写真機をうりに東京に行くんだ。小説家だって病気をしたら生活にこまるのに、詩人は余計こまるよ。実に・・」と。長居は池田に毒と思ったので「佐川の家にいってくる。またくるぞ」というと、「佐川によろしくいってくれ。佐川の女房は気のつく細君で、偉い人だよ」とほめた。鵜沼の佐川の家に往くと、細君は留守だった。十年ぶりに佐川をみた。思ったより元気だった。私はとてもうれしかったし、佐川もそうなのか二人は色々と話し合った。池田の話になると、「もう半年もつかな」と佐川は私にはなした。「よくないよ。半年かなあ」とつぶやくように再び云った。

出典:「日本未来派」日本未来派 57号(1953年) 池田克己追悼特集号

2024年07月19日|池田克己:島崎曙海