港野喜代子「紙芝居」序文
港野さんは、世話好きの、まめまめしい、小柄な、家庭の主婦である。
日本の主婦の多くがそうであるように、港野さんの日常は、子供のこと、ご主人のこと、ご近所隣りのことで大変に忙しい。
港野さんの詩は、そうしたありふれた日本の主婦の生活から、生きるもの、一種のはずみのように、弾力的な調子をもつて生み出される。
おそらくチャブ台や、マナ板や、洗濯板の上で、港野さんは感情の陽影や、思索の起伏を、断続的に、すくいとめるのであろう。
港野さんの詩の健康さ、その皮膚のぬくもりのようなリズムは、そのことをよく物語つている。
たとえば「蚊帳洗う日」という一篇の詩を見よ。このさかんな確かさは、最初の一行から最期の一行に至るまで、ぎつしりと充溢したことの人の、日本の婦としての生の実証を示すものだ。
緒方昇の首魁で、私が初めて港野さんの詩を目にしたのは五年前のことである。その時私は、その詩のみづみづしさと豊かさに眼をみはつた。そしてそのみづみづしさと豊かさは、日本の主婦という庶民の一つの典型から強く押し出されたものであることを感じた。それは当然素朴というものと繋がりながら、しかもおのづから賢明に、その身につけた社会性を重心としているものであつた。
まっとうな主婦の性格から邪気なく、てらいなく吐き出された港野さんのような詩は、いまこの国で類多しとすることは出来ない。
一九五二年初夏 帰省中の奈良吉野にて