法隆寺土塀

帽子にたまつた雨水をはらい
靴底につもつた泥土を雜草になすり
頬につたう雫をぬぐい
龍田川からの一本道
土砂降りしぶく一本道
とうとう私はかえつてきた
 松波木のむこうの綠靑いろに苔むした民家の屋根屋根 そのむ
  こうの田圃の中を烟(*けむ)つて消える一本道
 カタバミの小さな托葉と ヨナメの鋸葉 カヤツリ スズメノヒ
  エや 綠の縫取した白帶の一本道
この道
十年ぶりの
私の中華民國からつづいている道
  引揚船江ノ島丸の船底の 筵の上に腹這つて スクリユと機鑵
   のガンガンにやられた頭が 九日七夜うろついていた——
  Hの「支那彫刻史」と「三民主義と孫文」の稿成つた北平内一
   區喜鵲胡同や
  テリヤの亞里と鵞鳥と家鴨の戯れる 八十六本のタチアオイと
   クチナシの匂いの中で 十八もポケットのついたダブダブの
   爉衣で 包子を作つてくれたKの南京瑯玡路や 
  民國三十三年民國三十五年生まれの  私の原や道の オ
   シメのひるがえつていた上海閘北寶昌道や
あれらの路地につづいている道
あれらの路地での夢幻夢想の
歲歲十年を一瞬にちぢめて                
私の胸は動悸搏ち
私の頬は火照り
かなしみなく いかりなく
ためらいなく 痴愚なく 忘却なく
私はかえつてきた
日本が敗れたこと あれから四日目の華北の野で友が死んだこと
 私の左腕貫通銃創
もうみんな帽子の雨水 靴の泥
この道は垣垣と
松並木のむこうから 田圃のむこうから 雜草
 のむこうから
東支那海のむこうから
つづき
とうとう私はかえつてきた
土塀の外の蓑笠の田植
土塀の内の佛や伽藍
土塀の外の敗亡の今日の時
土塀の内の飛鳥や白鳳や天平の時
そして
私の中華民國十年の
さまざまな擧句の果ての
ただ一散にここに運んだ びしよ濡れの私の肉體を 支えて受ける
土塀の胸
この胸
かつて六朝を入れ
この胸 東トルキスタンに 健駄羅(ガンダラ)に 印度に 薩珊(ササン)に 東羅に
 サラセンに
この胸さらに 希臘に アッシリヤに 埃及に
通い
この胸また
物部蘇我の 血しぶき浴び
あれらの渾沌未分の煙霧をととのえ
あれらの歴史や地理の激湍を塗りこめ  
今は静かに土蜘蛛の這う
荒壁の土塀

私はかえつてきた
黄沙にまみれた服も脱がず
瓦礫と銹鐵の街に眼くれず
十年ぶりの中華民國からの一本道
とうとう私はかえつてきた  

  私の背の 私のあれからの時間の——
  猫背になつて 黄浦灘(パンド)の屋上から 鋸形に黄昏の空を截るジャ 
   ンクの帆布の列と 無數の人影を 眼しばたいて眺めていた
   私
  狷介孤高の痩詩人路易士と「馬上侯」の壁間を埋める老酒の甕
   の列を 卽ち一行一行の詩と數えていた私
  單發の機上から 流れ行く家屋と人間 家畜と樹木 あの浙江
   平原の大洪水をレンズに納めていた私
  蟬時雨のような彈丸音の中で 皮膚病の苦力の尻をめくつて
   膏藥をすりこんでいた私
あの時私は
何にかなしみ 何にいかり 何におどろきを發していたのであつた
 か
歲歲十年
その茫茫の時間の極み
天津貨物廠跡の日僑収容所から引きずり出された貨物列車の 昏い
澱みの一隅で
堤防から投げつける小孩達の石礫の音を黙って聽いていた私には
もはや 
かなしみなく いかりなく おどろきなく
帽子にたまつた雨水をはらい
靴底につもった泥土を雜草になすり
頬につたう雫をぬぐい
龍田川から一本道
土砂降りしぶく一本道
とうとう私はかえつてきた
私の中華民國の十年の
雜多矢鱈の
息せき切った一散の
昏昏迷迷の
肉體の前に立つ
荒壁
法隆寺土塀

2024年07月13日|池田克己:法隆寺土塀