植村諦「少年池田克己」より

池田勝己との交友は思えば三十年になる。しかし何時彼のことを考えても僕のイメージには真っ先に少年の彼の姿が浮んで来る。それは幾つになっても彼の中に少年のナイーブさと衒気が残っているためでもあるがまた僕の方には自分の子に自分の子は幾つになっても少年としか思えないあの親の動物的習性が残っているためかも知れない。僕が彼と毎日を過すようになったのは僕が学校を出て、彼の生地、大和吉野龍門村の小学校教員をしていた時で、僕が十九歳、彼が今の彼の長男原と同年の十歳頃であったかと思う。それで今長男の原を見るとよくもあんなに顔形、挙措動作まで己に似せて作ったものだと不思議に思う位だ。しかしその気質は原のように都会的な弱さとスマートさはなく、野生にみちてもっと能動的だった。 その彼を小学校三年から六年まで教えた当時の僕は学校では最も若い教師の一人で夢と理想に燃えていた時代だから田舎の封建的な慣習に反抗し、官僚の厳重な教育監督を無視して随分自由勝手な教育をやった。正規な師範教育を受けなかった僕の教育の指針になったものはルソーの「エミール」であった。大正末年の吉野の山奥でこんな自由教育をやる僕はしょっちゅう校長や学校からにらまれてばかりいたが、子供たちからは非常によろこばれ親しまれた。僕は彼らを連れて山野を跋歩して自然を観察させたり、動植物の採集や写生やったりした。そんな時池田はとても熱心でドンランでさえあった。その頃から彼は絵がうまかったが、何枚も何枚も画いては僕のところへ持ってきた。また放課後や日曜などには僕の自宅まで友人とともにやってきて、アンデルセンや小川未明、芥川などの童話をせがんだりしていた。こういうことが後年彼が絵を書いたり、詩を作ったりする最初の素地になったのかも知れない。
 

【後略】

(一九五三.三.一八)
出典:「日本未来派」日本未来派 57号(1953年) 池田克己追悼特集号

2024年07月17日|池田克己:エピソード, 植村諦